札幌の除雪風景

冬の札幌.道路に降り積もった雪は,除雪作業によって冬期間の交通が保たれている.今朝の北海道新聞に,除雪によって寄せられた雪によって車道の幅員が狭くなり,道路中央に走っている路面電車の通行の妨げになっているとの記事が載っていた.そしてその晩,ホテルへ戻るため道路を歩いていると,その路面電車の走る道路の除雪(排雪)作業が行われているではないか.その排雪作業,さすがは北海道と思わせるような,効率的な作業を繰り広げていた.その様子をお伝えします.

(撮影年月:2004年1月)


片側2車線の道路
新雪が降って,新雪除雪が行われると,車道の雪を脇に寄せるため,このように1車線分が雪の堆積場所として占有されてしまい,車道が狭くなってしまう.

歩道と車道のあいだには・・・
歩道と車道の間は,通常は街路樹などのスペースとなっているが,冬になると背丈よりも高く積み上げられた雪の山となってしまう.

ロータリー除雪車
道路に溜まった雪は,交通量の少なくなった夜間に「排雪作業」を実施して,雪を郊外の排雪場所まで運んでいく.ロータリー除雪車で,前方の雪をロータリーにかませて,雪を上からトラックに投げ込む.

トラックに積込
ダンプトラックに積み込み(投げ込み)を行うときは,ロータリー除雪車の作業走行スピードに合わせて,ダンプの運転手が状況を絶妙に把握して走りながら積み込みを行っていく.この息のあった作業風景は「おみごと!」と拍手を送りたくなる.ダンプは次から次へとやってきて,排雪場所まで運んでいく.


<積込状況の動画>

積み込み中 MOV00067

積み込み終了 MOV00070


グレーダーで圧雪はがし
降り積もった雪は車に踏み固められて,道路の上でコチコチの雪の固まりとなってしまう.その雪を剥がすのがグレーダーの役目.ガリガリと氷の固まりとなった雪を削っていく.

除雪ドーザーで取りこぼしを集める
グレーダーで剥がした雪も取りこぼしがある.そのような雪をかき集めるのが除雪ドーザー.このドーザーはV字型に自由自在に形を変えることができるので,交差点内などにおいてはY型にして雪が外にこぼれないようにし,外側に雪を寄せたいときはT字型にして雪を外に出すことができる優れもの!

大型除雪機械では限界があります
それでも小さな雪は残ってしまう.大型の除雪機械では限界がある.そこで,このようなきめ細やかな部分を除雪する機械が下に・・・.

細かい部分は小さい機械で・・・
ホイールタイプ(つまりタイヤをはいている)のショベルカー(バックホウ)で,歩道の細かい部分は除雪する.除雪作業は,さまざまな機械が道路に出て,一大イベントのように除雪を行うので,見ていて圧巻であり飽きない.なるほど!と唸らせるものがある.それに,作業がスピーディであり,お見事!という芸当を見せてくれる.

再び除雪ドーザーで仕上げ
最後にもう一度,除雪ドーザーで雪の後片づけをして仕上げる.一般の自動車を通行させながら行うので,除雪作業は大変である.

除雪(排雪)完了

根・標・釧~道東の冬~[トップ]

北海道は冬に訪れるべきである.
一番厳しい季節だからこそ,本当の姿を見ることができる.
とはいうものの,2002年2月9~10日は暖かい春のような陽気であった.

原野の広がる道東へ. 冬に訪れてみた.

羽田-釧路間の飛行機は運賃が高い.
羽田-札幌(千歳)では,エアドゥの登場により,割引率の高い「特割」がたくさん登場し,
航空運賃を安く仕上げることができる.しかし,そのとばっちりを受けているのが地方路線.

釧路便などはその最たるもので,「特割」の設定はあるのだけれど,割引率が極端に低い.
往復割引よりもちょっと安い程度である.これならば,変更の自由がきく往復割引を購入してしまう.往復約57,000円也.道東は時間のない人間にとっては,交通費が高くつくところである.

でも,北海道に来たら,道東(釧路より北東)か道北(名寄より北)に行かなければいけない.真の「北の大地」を味わえるのがここなのである.高いお金を払っても,行くことに時間のかかる道東へ行かなければならないのである.札幌だけで北海道を語ってはいけない.

霧多布,風蓮湖,そして納沙布岬へ.
根室のエスカロップも見逃せない

パイロットファームの広がる標津
根釧原野は素晴らしい.
この荒涼感がたまらない.

神秘の摩周湖.
釧路湿原の丹頂鶴.
釧路は道東の拠点である.

(旅行年月:2002年2月)

根室[根・標・釧~道東の冬~2]

釧路から最東端を目指して,国道44号を走っていった.

~厚岸~厚岸~厚岸~厚岸~厚岸~

厚岸味覚ターミナル・コンキリエ
厚岸(あっけし)の街と厚岸湖・厚岸湖・厚岸大橋が望めるセンター.ここには名産の「カキ」を主体とする地場産品の販売等を行っており,2階のレストランではカキ料理が味わえる.
コンキリエとはイタリア語で貝の形をした食べ物という意だそうで,建物の外観もカキをイメージしたものとなっている.
本来なら全て凍っているらしいが,気温が高い影響で半分しか氷が張っていない厚岸湖.

コンキリレストランにて
とろろ昆布の上にカキの唐揚げ.そしていくらがのっかっている.

生オイスターは欠かせない

北方領土のパンフレット

~霧多布~霧多布~霧多布~霧多布~霧多布~

琵琶瀬展望台からの霧多布湿原
霧多布湿原は国内3番目に大きな湿原で,3,168haの広さがある.夏は花が咲き乱れ,美しい湿原が広がっているのだが,冬の湿原もまんざらすてたものではない.白いパウダーの中に琵琶瀬川が蛇行して流れ,空気は冷たいが景色は暖かみの感じる白い世界が広がっている.

霧多布湿原の中をはしる道路

~厚床~厚床~厚床~厚床~厚床~

広大な根釧台地が車窓に広がる.この景色を見なければ,北海道に来たとは言えない.
荒涼としたこの景色こそが”北海道”なのである.

道路脇に建っている矢印(↓)は,路肩の位置を表示するデリネーターである.積雪と吹雪の多い北海道では,吹き溜まりなどで埋もれないように上から矢印で路肩を示しているのであるが,景観的にはどうなのかと疑問も残る.
夜になると,赤くチカチカ点滅するものもあり,さながら赤い蛍が飛んでいるような気分になる.

~温根沼~温根沼~温根沼~温根沼~温根沼~

風蓮湖
春国岱(しゅんくにたい)の長大な砂州によってオホーツク湾と区切られている汽水湖.海水が混じっている.

北海道のちょっとしたイベント会場には必ず氷や雪で作った「滑り台」がある.これも冬の北海道.

氷を滑るときは,お尻に農協などで手に入れる肥料のビニール袋を敷いてすべる.このビニールだと抵抗が少なく,かつ破れにくいのでちょうど良いのであろう.

「ナクルロード」380円
”しばれる”北海道の道路はテカテカに凍っている.道路には塩化系の凍結防止剤がまかれているが,それを道の駅「スワン44ねむろ」で販売している.ジュースと一緒に凍結防止剤が並べられているが,この凍結防止剤,買ったはいいがドライバーはどこに使えばよいのだろう.

~根室~根室~根室~根室~根室~

根室市街の標識には,「ロシア語」も併記されている.英語の下にロシア語があり,青い道路標識の看板にも併記されている.ロシアへの親しみを込めた交流の現れか.福岡や対馬ではハングル語の表記が見られるのと同じ.

こちらは全てロシア語の地図

根室の喫茶店ではごく普通のメニュー.
バターライスの上にデミグラスソースのかかったカツがのっているもので,ソースはハヤシライスに似ているものであった.横浜から移り住んだ料理人が根室で若い女性向けにメニューを作ったのが始まりだとか.語源はイタリア語を変形させたもの.

~納沙布岬~納沙布岬~納沙布岬~納沙布岬~納沙布岬~

北海道の道路沿いには,交通安全を示す黄色い旗をよく見かける.寒風に吹きさらされながら,バタバタと交通安全を訴えている.遠くに見える白い塔は展望台.

北方領土の早期返還を願ったモニュメント「四島のかけはし」

納沙布岬

不毛の根釧原野が広がる

標津[根・標・釧~道東の冬~3]

~別海~別海~別海~別海~別海~

別海町は酪農の町.広大な原野にパイロットファームが広がる.
「べつかい牛乳」
なつかしい三角形のパックに入った牛乳.

寒さの厳しい北海道では,ボイラーで温水を配管して,壁際に温水の熱を放出する暖房器が設置してあることが多い.全館暖房となっている.温度の調節は,温水の量をバルブで調節して行う.

動物王国・北海道.
道路沿いにはさまざまな動物の横断注意を促す看板が建てられている.牛,馬,鹿・・・ 他にも何かあるかも・・・

~尾岱沼・野付~尾岱沼・野付~尾岱沼・野付~尾岱沼・野付~

白鳥台(北方展望塔)からのオホーツク海.野付半島の向こうにうっすらと国後島が見えた.(この写真では難しい・・)

知床の山とパイロットファーム

野付半島は根室海峡に突き出る日本最大の砂嘴(さし)である.砂でできている半島で,あと数百年経つと浸食されて原型があるかどうか・・・?.右も左も海となり,道路が突っ切っている.
ここにはトドワラ(トドマツが海水におかされ枯れて風化したもの)などの荒涼とした風景が広がる.地図を見ると不可思議な地形を描いているだけに,行ってみたくなるところである.

野付半島の一コマ

寒い!

北海道の住宅.
入口は二重構造となっており,さらに中に本物の玄関扉がある.アルミサッシは防寒用.窓も二重である.そして,軒先には必ず赤いスノーダンプ(小さいサイズはママさんダンプともいう!)が置いてあり,煙突は強度を増すためなのか,歴史的にそうなのか,四角い頑丈な煙突が多い.

~標津~標津~標津~標津~標津~

とにかく真っ直ぐな道路が多い.このあたりの地図を眺めると,ただ,ただ,原野の中に道路の線をひいたことを感じる.

各牧場の入口には,表札看板が掲げられている.

地球が丸く見える「開陽台」.標津のパイロットファームが一望できる.ここはライダーたちの聖地と呼ばれていた.ここから大地を眺めるとなんと自分が小さいことか・・

北海道を代表する景観のひとつだった「サイロ」.これはエサを発酵させるための施設であるが,現在は右側のようにエサをくるんで発酵させるようになっている.つまり,サイロは今は使っておらず,徐々に姿を消していく.

釧路[根・標・釧~道東の冬~4]

~摩周湖~摩周湖~摩周湖~摩周湖~摩周湖~

冬の摩周湖.本来なら氷が張っているのであるが,今年は暖かくて凍っていない.といっても風は冷たく,ほっぺたが痛い!!

摩周湖からみた弟子屈の街

釧路に向かう途中,美しい風景に出会った.

北海道のアパート.煙突の形など,内地とはちょっと違う感じ.

アパート Part.2

~鶴居村~鶴居村~鶴居村~鶴居村~鶴居村~

鶴居村は,釧路湿原の北に位置し,その村名からも伺えるとおり,丹頂鶴の生息するところである.丹頂鶴は一時絶滅の危機に瀕したが,保護活動が実り,いまでは600羽程度の鶴が観測されている.

丹頂鶴は,飛ぶ姿がとても優雅なため,全国各地から「鶴」を求めて,カメラマンが訪れている.何十万もする超望遠レンズを鶴に向け,シャッターチャンスをねらっている.池中玄太の世界!(懐かしい)

夕方になると,丹頂はねぐらに戻ってくる.川の真ん中に鶴がいる.(音羽橋より撮影)

「この道路での撮影は除雪作業の邪魔になるので駐車はご遠慮ください」
鶴の保護のため,撮影できる場所は限られている.その限りある撮影地を求めて,アマチュアカメラマンは移動し,飛んでくる鶴の姿を待ちかまえている.マイナス10度.バッテリーはすぐになくなってしまうので注意が必要である.

夕方になると餌場から寝ぐらに帰るため,鶴たちが飛び立っていく.
鶴は「生き物」である.その日によって,飛行ルートが異なっている.待っていたところの上空をうまく飛んでいってくれれば「大当たり」.遠くに飛んでいってしまったときは「はずれ」.
「今日はだめだった~.」
鶴の撮影には,ばくち的な要素があり,うまい構図を撮ろうとして,結構はまっていくものである.

やっと撮った1枚.「いまいち」の出来だが,うまい構図を捕らえようとして,鶴の虜になっていく・・・.このあとバッテリーが切れた!足は寒いし,顔はひりひりする.

日が沈む鶴居村の風景.この上空を,つがいの丹頂鶴が飛んでいく.

利尻島(最果て紀行・その1)

急行「利尻」号稚内行の人となった。札幌22時発の夜行列車である。今日も札幌は寒かった。昼間の気温は16℃。ここ2~3日、北海道は涼しいというよりも寒いといった日が続いていた。
『東京では、今年最高の35℃を記録し、厳しい残暑が続いております。』
ニュースはこう伝えていた。Tシャツの他にヨットパーカーしか持っておらず、この2枚だけでは着たりない気候だった。闇の広がる窓ガラスには、露が隙間なくびっしりと埋まっていた。
車内は満席だった。若者が多く、その中でも大きな登山用リュックを持ったワンダーホーゲル風の若者が多い。皆、最北を目指す人々だった。車内の明かりが消えた。

曇り空の中、列車は湿原を走っていた。すぐに兜沼駅を通り過ぎた。サロベツ原野である。緑の潅木が間隔をあけて後ろへと去っていく。これこそが北海道の車窓である。しばらくすると左眼下に陰鬱とした海が広がった。列車は徐行し、
「晴れていれば、左手に利尻富士の姿を望むことができます。」
と放送が流れた。利尻島の頂上は雲に隠れ、島の裾のみが海上に浮かんでいた。そして午前6時、最北の街・終点稚内に到着した。
稚内は道北随一の漁業基地であり、アイヌ語で「ヤムワッカナイ」-冷たい水のある沢-の意だという。戦後の樺太引き上げ者には稚内に留まる人が多く、それによって市制施行が可能になった所でもある。
フェリーのりばへと向かった。まず、利尻島へ上陸し、午後に礼文島。日帰りで稚内に戻ってきて一泊し、明日、宗谷岬へ行く予定である。ずいぶんと駆け足の旅程になってしまった。もっと時間をかけてじっくり回りたかったが、どうしても今後の日程の都合がつかず、急がざるを得なかった。ターミナル前の定食屋にて、朝定食を注文、まずは腹ごしらえをした。待合室では乗船客がコーヒーを片手に暖をとっていた。
7時30分、稚内港を出航した。ジュータンの敷かれた2等船室は、中高年のツアー団体客と旅行中の若者とで埋まっていった。約1時間30分で利尻島の鴛泊(おしどまり)港に入港する。3000トン級の船なので、海に出るといつもの事ながら上下に「グワン、グワン」と揺れはじめた。この利礼航路が開設されたのは鉄道が稚内へ伸びた後の昭和8年であり、稚内と利尻と礼文とを結ぶことから別名三角航路とも呼ばれている。
鴛泊まであと20分となった。甲板に出てみた。海上にポッカリ浮かぶ利尻島は最高である、と聞いていたが、やはり雲は取り去られていなかった。分厚く覆っている灰色の雲と海が、最北の地を表現していた。
利尻島はノシャップ岬から西へ約52㎞、周囲63㎞、面積182.1k㎡、利尻町と利尻富士町の2町からなり、北海道の離島の中では最も大きく、伊豆の大島よりひとまわり大きい島である。噴火によって出来たこの島は、島そのものが一つの山を形成している。一つの頂きから海に向かって美しくのびる裾を持ち、しかも高さが1700mもあるような島(山)は、日本では利尻島以外にはない。
利尻礼文の開拓は貞亨年間(1684~)から始まったが、本州からの移住者は明治に入ってから増えた。産業の中心は鰊漁であり、はじめのうちは出稼ぎ農漁民だったが、次第に定住する者が増え、最盛期の昭和30年には約2万人の人口があった。ところが、鰊漁の不振とともに人口が減少し、今では人口約1万人、アワビやウニなどの栽培漁業、ホッケ、スケソウダラ、イカなどの沿岸漁業に力を注いでいる。昭和49年に「利尻礼文サロベツ国立公園」に指定され、現在では漁業とともに観光が島の重要な産業になっている。
鴛泊のターミナルは堅牢な建物である。昭和58年に建てられたものだという。次の香深港(礼文島)行のフェリー出航まで2時間半しかなかった。バスの時刻表を見てみたが、一周する時間はない。待合室をさまよっていると、胸に名札をつけた制服を着たおじさんが近づいてきた。
「この後の予定は決まってるの?」
「いや、全然きめていないんですけど、とにかく、11時25分の船で礼文島へ行くのだけは決まっているんですが。」
「あ、それなら、ハイヤーでぐるっと一周するよ。船には十分間に合うから、どう?」
その方法が、今の状況では最良の島内見物に思えた。しかし、気になることと言えば、
「それで、値段の方は。」
「1時間半で1万3、4千円ぐらいかかっちゃうけど。」
「1万3、4千円かぁー。……。」
僕は渋い顔をしていた。
「せっかく一周できる時間があるんだからさ。もったいないよ。予算はいくらぐらい?」
「5千円位ならばいいんだけど。」
「5千円だと1箇所の往復だけで全然みれなくなるからね。誰か他に一緒にいく人がひとりいればいいんだけど。誰かいないかね。」
運転手さんと僕は待合室に入り、一人旅の人間を探した。一人青年がいたが、これから折り返しの船で発つとのことだった。
「じゃ、1万円でいいよ。」
それでも、頭の中で2つの思惑が交差した。
『タクシーに1万円を使うのは高くてもったいない!』
『せっかく最北まできたのだし限られた時間内では多少の出費も仕方ない、1万円は安い方だ!』
結局、後者を選んだ。

沼浦展望台

姫沼

運転手さんより、役場の発行している観光案内パンフレットを手渡され、島全体が載っている地図を開いた。これから、島北部に位置する鴛泊より右回りに一周するという。まずは姫沼に行くことになった。利尻島は鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形の4つの集落から成り立っている。道は閑散としており、左は海、右は小高い丘という風景だった。鴛泊の市街を抜け、車は海岸沿いの一周道路から右の道へ曲がって姫沼へ向かった。姫沼は針葉樹林や高山植物に囲まれた周囲1㎞の沼で、利尻山を逆さに写すことから、「姫沼のさかさ富士」として知られている。今日は山は写っていない。うっそうと茂る林のなかにある静寂な小沼だった。
再び一周道路に戻り、車は南下した。左手には、利尻水道を挟んで北海道がぼんやりと望める。島の人々は北海道のことを「本土」、本州のことを「内地」と呼ぶという。島民にとって、本州は遠い地なのである。「内地」という言葉には、北海道を開拓した人々のフロンティアスピリット、夢と希望と不安が表われているように感じる。
エゾマツとトドマツの違いについて聞いてみた。この2つは非常に見分けのつかない松である。
「これから先に、両方の木が生えているいい場所があるから。」
そして、その場所で車は止まった。右側には岩礁のような山にマツがごそっと立っていた。そこを指差して、
「左がエゾマツで右がトドマツですよ。」
一見しただけでは見分けがつかなかった。
「幹からわかれている枝が、上を向いているのがトドマツ、下を向いているのがエゾマツね。覚え方は『天まで・と・どけ・ト・ドマツ、どうでも・え・えぞ・エ・ゾマツ』と歌うんだよ。」
多少なまりのある言葉で、リズムにのせて繰り返し歌った。確かに、よく見ると枝ぶりが違っていた。見た目には、やはり上向きのトドマツの方が整っている。どうでもいいエゾマツは葉がボザッとしていてしまりがない。歌詞に影響されているかもしれないが……。
左手に赤と白の縞に塗られた巨大な灯台が現れた。石崎灯台である。赤白に塗られているのが無人灯台で、黒白に塗られているのが有人灯台である。今はほとんどが無人化されており、昔はここも黒白に塗られていたという。沖合い漁業の盛んな鬼脇の集落に入った。
オタトマリ沼を右手に見て、坂を登った小高い山頂にある沼浦展望台に着いた。涼しい風が吹いている。海抜42.7mと書かれた看板横で写真を撮った。山側の眼下にはオタトマリ沼が見え、その背後には木の点在する草原状の丘が続いていた。晴れていればそこに山がそびえているはずである。なんとも荒涼とした眺めであった。
島の南端を通過し、仙法志に入った。アザラシがいるという仙法志御崎公園に立ち寄り、北のいつくしま弁天宮を通り過ぎて、寝熊の岩に着いた。その名の通り熊が寝ているように見える岩礁である。仙法志の海岸は奇岩・奇石が点在しており、他にも人の横顔に見える人面岩もあった。人面岩の頭の部分には白いしめ縄がハチマキのように巻かれていた。
島内に信号は3箇所あるという。そのうちの一つは押しボタン式であり、
「赤になったのを見たことがないよ。」
と言う。
信号などなくてもよさそうであるが、島民が都会に出た時に困らないように教育上必要なのだそうである。
家の煙突は集納煙突といい、煙を一ヵ所に集めて外に出すしくみになっているという。そして北海道の家々に四角い煙突が多いのは、雪などから守るため頑丈に造られているからだという。
沓形に入った。小樽と礼文からのフェリーが寄る町(旅行時は運航していたが、現在は廃止された)で、アイヌ語で「クツアカンタ」-岩が多い所-という意である。海岸に広がっている黒い岩は、利尻岳噴火の際の溶岩であるという。右手はクマザサなどの生い茂る平原が続いている。上空に小さな飛行機が見えた。近くにある利尻空港から飛び立った稚内行のプロペラ機で、19名乗り、稚内までは20分で到着してしまう。船の弱い人が利用するそうである。現在空港はジェット化に向けて工事をしているという。
「ジェット化すれば、札幌から大勢乗った飛行機がびゅんとやってきて、便利になるだろう。」
と未来への希望を語っていた。
冬の吹雪はすさまじい。車で外を走っていても前が見えず、そういう時は車を運転しないという。大時化の時は、岸に風船ぐらいの大きさの岩が打ち上げられるというから驚きである。
「2~3日分まとめて新聞が配達されることもあるよ。もう何十年も前のことだけど、一週間くらい船が来なくて、島の食糧が底をつくという時もあったよ。」
と話していた。
沓形には会津藩士の墓があり、そこに寄ってもらうことにした。故郷が会津の僕としては気になる所であった。文化4(1807)年、ロシア軍艦の襲撃に対する警備のため、津軽藩や会津藩を配置させたが、この時に水腫病で死亡した藩士の墓である。墓は、道路より少し入った場所にひっそりと立っていた。
6年前、天皇(現皇太子)が山登りをされたため道路が良くなった、泊まったホテルはあそこだよ、などと話をしているうちに鴛泊へ戻ってきた。タクシーもたまにはいいな、と思った。

礼文島(最果て紀行・その2)

午後12時、礼文島・香深港に到着した。礼文島は利尻島より12㎞北に位置し、周囲72㎞、面積82k㎡、利尻島とは違って南北に細長い島である。島全体は丘陵地となっており、島東側は南北に貫く道路が走り集落が点在するが、西側は海食岩が断崖絶壁となって海に臨み、人を寄せつける気配が全くない。利尻島と共に、高山植物が海抜0mから群生し、「花の浮き島」とも呼ばれている。断崖絶壁の西海岸には8時間ハイキングコースがある。
島北端のスコトン岬に行ってみることにした。岬行のバスまではまだ時間があったので、昼食をとり待合室で待った。香深港ターミナルは鴛泊と同様、真新しい立派な建物だった。
桟橋が賑やかになってきた。折り返し稚内行きフェリーの見送りの人々である。僕も桟橋へ出てみた。
若者が多かった。3人組の青年が大声で歌を歌い、応援団のように大きな身振り手振りを加えながら別れを惜しんでいる。一方では一人ギター片手に歌を弾き語り、別れを告げている。船の甲板には数十人の若者が桟橋に向かって手を振り合い、別れの言葉を叫でいる。人それぞれ、自分なりの別れを表現していた。紙テープが何本も投げられた。
「○○大学ユースホステル部のますますの発展を祈って、三本〆めを行います!」
大声と共に手拍子が行われた。
出航間近になると「蛍の光」がしみじみと流れ始めた。
「またこいよー。」
「さようならー。」
「バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ。」
若者達の顔は笑顔で満ちていた。真に別れを惜しみ、思い出を胸にかかえている顔だった。つながりを求めてユースホステル桃岩荘に集まる若者たちの青春をかいま見たような気がした。
4人の乗客を乗せ、スコトン岬へ向けてバスは発車した。町を抜けると島東側の海岸通りを北に向かって走る。右には海に浮かぶ利尻島が望める。山頂は見えなかったが、朝よりはだいぶ雲が無くなっているように思える。道路は利尻島の方が整備されており、こちらは狭路も残る田舎道といった感じだった。
「日本離れした風景」とはまさにこのことを言うのか。北海道本土に住む人間でさえ、利尻礼文は美しい所だと言う。樹木はほとんど見当たらず、地の起伏に沿って荒涼とした草原が続いていた。
香深井、起登臼、上泊と過ぎ、飛行場のある船泊を過ぎた。バスはのんびりゆっくりした速度で走り続けた。北海道のバスにしては珍しいようにも思う。
僕はこのバスの折り返しで香深港に戻らなければならなかった。スコトン岬で与えられた時間はたった2分である。 須古屯の集落を過ぎ、あと少しで終点に着くというところで、念のため、運転手さんに聞いてみた。
「このバスはすぐ折り返しになるんですよね。17時のフェリーに乗るためにはこのバスで戻らないと間に合いませんよね。」
バスは今までの緩慢さが嘘のようにスピードを上げ、草原を勢いよく走り出した。
「もう少し早く言ってくれればよかったのに。」
そして岬の駐車場に着いた。
「ここを(14時)10分に発車するから。すぐそこが岬だから見てきていいよ。」
発車を5分延ばしてくれた。スコトンの地をこの足で踏めるのだった。急いで岬の先端へ向かった。

スコトン岬

メノウ海岸

前方にトド島が見え、断崖の突き出した先端にやってきた。写真を撮り、「最北限の公衆トイレ」と書かれたトイレに入った。宗谷岬とスコトン岬の緯度はほとんど変わらないが、若干宗谷岬の方が北に位置しており、それで「最北・限」という表現になったのだという。中途半端なシーズンの為か、観光客はほとんどおらず、曇り空と相まって風の吹く寂しい所だった。バスを待たせていることから、じっくりとその風景に浸っている余裕はなく、急いでバスに戻った。
15時を少し回った所で、香深の港に戻ってきた。さて、この島で一番楽しみにしていたこと、それは「うに丼」である。これだけは何が何でも実行しようと思っていた。いよいよ、それを食べれる時がきた。町中へ、いざ出陣である。
街は静かであった。人通りは全くない。適当に歩いていれば店があるだろうと思い、ぶらぶらと歩いていた。役場前を通り過ぎてしばらく行くと、「うに丼」と書かれた大きな旗を立てかけている店があった。迷わず店内に入った。
客は誰もいなかった。注文を聞かれ、ここでも迷わず、
「うに丼を一つ。」
うに丼にも量によっていくつかの種類に分けられており、器を大きくしたものが「ジャンボうに丼」、うにを2層にしたものが「ダブルうに丼」。ダブルうに丼の値段は普通のうに丼の2倍、うにも2倍なら値段も2倍というわけである。また、うにの入ったおにぎりを「うにぎり」と名付けて売っていた。隣の机に無造作に置いてあった北海道新聞を読みながら、出来上がるのを待った。
うに丼がやってきた。結構間口(横幅)の広いどんぶりである。ふたがかぶさっていた。
「まず、ふたを取って下さい。」
何か特別な食べ方でもあるのだろうか。言われるままにふたを開けた。ご対面である。御飯の上にのりを挟んで黄色とオレンジのうにが、うつわ一面に敷き詰められていた。白米が見えない! うには黄金のようにキラキラと光り輝いていた。
「そのふたにしょうゆを垂らして、わさびを溶いて、それをかけてから食べて下さい。」
その通り実行した。まずは吸い物を一口すすり、そして、うに丼を口にほおばった。
あまい。うまい。
臭みが全くない。次から次へと箸の単振動が続いた。至上の幸福感でいっぱいである……。
食べ終るのは早かった。5分位だったろうか。貧乏くさい話になるが、このうに丼は3500円なので、1分当たりに換算すると700円、1秒当たりでは約12円であった。
香深のフェリーターミナルに戻った。海上を見てみると、利尻富士が全姿を現わしているではないか。晴れたのである。日は傾きかけていたが、洋上にすらりと浮かぶ利尻岳は女性的で、何か神秘的な美しさを感じさせてくれるものだった。稚内入港時刻は19時20分の予定だった。

香深港から眺める利尻島

宗谷岬(最果て紀行・その3)

9月7日、雨である。8時過ぎ、宗谷岬へ向かうバスに乗った。席はすぐー杯になり、立ち席の乗客もでてきた。ほとんど大学生の若者である。観光客の若者が大勢乗っている路線バスは初めてである。それだけ、最北端は若者に人気のあるところなのだろうか。
若者に限らず、人には「最果てまで行ってみたい」という願望があるように思う。行き着くところに行ってみたい、と思うことがある。何故なのか。はっきりした事は分からない。でも、「最果て」というものには何か意かれるものを感ずるのである。
飛行場を過ぎ、右には原生花園が、左には海が静かに波を打っていた。まわりには何もなかった。草原と海、人工物は道路のみ、除雪用の道路存在位置を示す矢印のボールと電柱が道に沿って先まで続いていた。
稚内駅から約1時間、宗谷岬に到着した。外は雨が霧のように降っていた。気温15℃。みやげもの店のスピーカーからは宗谷岬の歌が流れ、背後にはソ連のバルチック艦隊の通過を監視したという望楼が往時を伝えていた。
北緯45度31分、ここが日本の最北端である。
行きつくところまで来た。「日本最北端の地」と刻まれた碑の脇で海を眺めた。何ともいえない空虚感が心の中に流れていた。「最果て」、それは終わりを意味する言葉である。僕の北への旅は、今、終わりを告げたのであろうか。
これは、一つの区切りである。これから、また新たな旅が始まるのである。海に片手をつけた。とても冷たい水だった。遥か遠方を眺めたが、樺太は見ることができなかった。


宗谷岬、北の最果てである。北緯45度31分
稚内駅から荒涼とした原野の中を走ってくると、宗谷岬に到達する。天気の良い日には遙か彼方に樺太の姿を見ることができるという。隣のみやげ物店からは宗谷岬の歌が流れていた。

ベニヤ原生花園の湿地帯

納沙布岬(最果て紀行・その4)

今朝の札幌は大雪となった。一晩のうちに30-40cm程積もったようである。空はどんよりと曇っている。汚れのない純白の雪があたりを覆いつくしていた。
札幌市街に近い丘珠空港から根室中標津への便は2便ある。これから、8時30分発のANK481便に搭乗する予定である。駅前から空港連絡バスに乗り、路面の凍る札幌の市街地を空港向けて走っていった。
スカイメイトでもチケットは充分に取ることができた。窓側の希望を告げると、
「景色の良い席をお取りいたしましょうか。」
と聞かれた。席は一番後ろの左側だった。ボディチェックを受け、搭乗待合室で待った。
機種はYS-11である。戦後の日本において最初の純国産旅客機で、座席数64のプロペラ機である。ジェット機が主流となったことや、最終製造から20年程経ち老朽化してきたことなどから、今後姿を消していく機体である。現在、代替機種として、YS-Xジェット機の設計が開始され、2000年の就航を目指しているという。
乗客は十数名であった。地元客がほとんどである。機体に付着した雪を溶かすため、翼には温水が放水され、翼からは湯気がゆらゆらと立ちのぼっていた。プロペラが高く鳴りだすと、飛行機は加速し、丘珠空港を離陸した。
上昇していくうちに雲はなくなっていった。札幌だけが雲に覆われていたようである。縦横に引かれた白い道路、そして黒く見える石狩川が広がっていた。まもなく石狩平野の眺望は終わり、飛行機は石狩山地上空へと入っていった。プロペラ機は飛行高度が低く、眼下の地形は非常によく眺められた。
山並みが険しくなるにつれ、こげ茶の枯れ木だった山肌には雪が多く見られるようになり、頂上は真っ白であった。大地が雪と寒さで閉じ込められている。春が来るまで耐えているようである。十勝岳が煙を細々とたてていた。この噴煙は唯一の大地の鼓動であった。
おしぼりとコーヒーのサービスがあった。短距離の飛行機でコーヒーが全員に配られるとはは珍しい。
山中に穴を開けたような白い円形が現れた。結氷した摩周湖であった。横一列に並んだカラマツが見えた。飛行機は高度を下げ、中標津空港に着陸した。

リュックを受取り、根室までの連絡バスに乗った。空港ターミナルは木を基調としたぬくもりのある建物である。観光客は皆無であった。2月中頃の道東と言えば流氷ぐらいのものである。根室にも流氷はやってくるそうだが、暖冬の影響で2-3日前にやっと網走に流れつき、こちらの根室までは当分やってきそうにもなかった。バスの乗客は2名だった。
中標津町のパスターミナルに立寄った。かつては鉄道が走っていた町だが、5年程前、赤字により廃止となった。今となってはバスと飛行機が住民の公共の足となっている。とはいっても、バスなど利用する人はほとんどおらず、マイカーが移動手段となっているのが現実だろう。
標津は広大な大牧場のあるところで、あまり俗化されておらず、北海道の雄大さと荒涼さが満喫できる場所である。
中標津の街を抜けると、根釧原野のまっただ中を走る。黄金色に枯れた草原が続き、雪に混ざった茶色の土が広がり、権木が点在し、湿原が広がり、時々サイロとカラマツ防風林が通り過ぎる。だだっ広く何もない。まさに「原野」である。
この根釧原野の風景は、美瑛の丘や釧路湿原とはまた違った趣のある景色である。美瑛ほど起伏に富んでおらず、釧路湿原ほど平坦ではない。北欧を思わせるような風景でもある。この景色を見る度に、心の底から感動がこみ上げてくる。
道路もこれまた雄大に敷かれている。急なカーブはなく、丘に起伏に沿って道がうねり、高速道路のような感じである。
札幌とは違い、雪はほとんど無かった。道東はそれほど雪は降らず、雪よりも風による寒さがきつい。雪は石狩山地に当たって東へはやって来ないのである。
別海を過ぎ、厚床を過ぎた。厚床からは別の国道に入り、進路を東へと変える。根室半島に突入するのである。風景は、広漠たる「原野」が続く。この先に本当に街があるのだろうか。
白鳥が渡来する風蓮湖を左に見て、しばらくするとオホーツクの海が広がる。流氷は無かった。そして、久々に家が連なり、根室市内に入ると終点、根室駅前となった。

根室はいつ来ても寂しい空気の漂う街である。どことなくクールなのである。ホテルに荷物をおいて、「納沙布岬」へと向かった。納沙布岬行のバスは数人の乗客を乗せ、最東端を目指し出発した。
荒涼とした湿地帯をバスは走る。作物が根付かない痩せた土地だという。所々、木柵で長方形に囲まれたブロックが道沿いに広がっている。バスの運転手さんによると、樹木の苗木を守るためだという。何故、木を育てているのかを尋ねてみると、ひとつは風よけ、もうーつは魚が寄ってくるように、との答えが返ってきた。右手には海が広がっている。
さらに、なぜ木が育つと魚がやってくるのか尋ねてみると、木が育つと海に影ができてその影に魚が集まってくるのだよ、と教えてくれた。ちょっと首をかいテたくなるような理論であるが、木を植えると何らかの要因によって漁が栄えるのは確かなようである。
乗客は僕一人となった。
「あそこに茶色の船が見えるだろう。あれはこの前、座礁したソ連の沈没船だよ。ソ連のものだから、こっちではどうすることも出来なくって困っているんだよ。」
海の沖合には気味の悪い色をした船が傾いていた。
「酒飲んで運転というか、海を渡っていたんだと。まったく、それじゃ事故を起こすわけだよ。
ソ連人は酒好き、という話は以前聞いたことがあった。帰りの船には中古車や冷蔵庫などを満載して港を去るのだという。
根室とソ連、と言えば北方領土である。北方領土とは歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島の四島のことであり、終戦までに約1万8千人の島民が居住していた。
終戦の日から3日後の8月18日、ソ連軍は千島列島北端のシュムシユ島に上陸し、ウルップ島まで南下してきたが、一度、北に引き返した。ところが、ソ連軍の別部隊は、択捉島以南にアメリカ軍が進駐していないと知り、9月3日までに北方領土の占領を行ったのである。
島民のー部は危険を犯して北海道に脱出したが、多くの島民は苦しい抑留生活ののち、昭和24年までに引き揚げさせられた。元島民は現在、島々を間近に望めるこの根室に住み、北方領土の復帰を待ち望んでいるのである。北方領土は日本人によって開拓され、かつて一度も外国の領土になったことのない土地である。
終点、納沙布岬に到着した。砂利の敷かれた操車場にひとり降り立った。冷たい風が強く吹いていた。空は晴れていた。人の姿はほとんどなかった。岬へと足を向けた。
『帰せ北方領土-納沙布岬』
と刻まれた木が立っていた。海の向こうには、隆起した島が望めた。北方領土-歯舞諸島の水晶島である。冬の納沙布岬は気が滅入るほど淋しい所だった。
灯台の立つ岬先端にたどり着いた。
東経145度49分、ここが日本の最東端である。
北方領土の展示室に入った。望遠鏡を覗いた。貝鼓島の不気味な灯台が、レンズの中に孤高に立っていた。


納沙布岬、東の最果てである。東経145度49分
道東は雪こそ少ないが、風の強く吹くところである。遠くには北方領土が望める。展望室の望遠鏡を覗いてみると、貝殻島の不気味な灯台が孤高に立ってる姿を見ることができた。根室には、北方領土に帰る日を待っている人々が住んでいる。

冬の釧路湿原
霧氷があたりを別世界に変身させていた。

オホーツク流氷物語

(旅行年月:1993年2月)


プロローグ

「靴はどんなのがいいんだろ。」
「そうだな。くるぶしまで隠れるトレッキングシューズがいいんじゃない? 雪用のスノートレッキングもあるけど。」
こんな会話が友人と交わされた。北海道へ旅立つ1カ月程前である。
話はさらにさかのぼり、10月のとある日のこと。授業が休講となり、図書館で友人と日本の風景の写真集を眺めていた。ページをめくると、雪に覆われた白一色のなだらかな丘の写真がでてきた。冬の北海道である。
「冬の北海道も行ってみたいな。」
「マイナス何十度の世界だよ。」
「どんな感じだろう。」
「冬の北海道へ行こうか! 」
「うん、行ってみようぜ。」
意気投合するのは早かった。こうして計画が始まり、友人を誘って合計4人、厳寒の北海道への旅が行われることになった。
冬の北海道といえば”流氷”である。目的は流氷を見ることであり、旅のルートはオホーツク海岸を南から北へ抜けることになった。また、せっかくだから釧路湿原でタンチョウでも見よう、ということになり、釧路から網走、紋別、浜頓別、そして稚内に至る『オホーツク沿岸北上コース』が出来上がった。交通機関は全て列車やバスである。レンタカーは乗り捨ての自由がきかないことや、雪道の運転に誰も自信がないので使用をやめることになった。
列車となると切符が必要である。切符は「北海道ワイド周遊券」を買った。北海道までの往復乗車券がつき、道内では全線乗り放題、しかも特急の自由席に乗れ、さらに冬期間は値段が通常の1割引とくれば、僕らの旅行には欠かせない切符であった。
服装についても考えた。田舎のおじいちやんに聞いてみた。
「おれはなー、あんた達の年齢の時、軍隊にいてなー、北海道にいたことがあるけど、とにかく風が強くて冷たいから、風の通さないビニール系の服を持って行け。」
なるほど、さすがはおじいちやん、だてに年を取ってないなと思った。僕はナイロンのウェアーを持って行くことにした。
出発日は2月8日である。その前に期末試験が待ち構えていた。必修科目を2つ再履修している僕であった。

日の出前の雪原

北の大地・北海道

急行「八甲田」号の発車は21時45分である。僕らは1時間前に集合した。自由席の乗車口には、既に7~8人の列ができていた。ここ上野駅の地下ホームは、旅情を感じさせる独特な雰囲気の残る場所である。みんなのリュックには、手袋、マフラー、帽子にホッカイロ・・・・と、防寒具で飽和状態といった感じであった。一夜明ければ、雪が見られるのである。車内は空いてはいなかったが、大潟雑といった程でもなかった。
青森は期待通りの雪景色であった。「海峡」号に乗り換え、北海道の入口・函館を目指した。自由席は満席で座れなかったが、隣の指定席があいていたので、300円を払って席に座った。今日の予定は、釧路まで列車に乗りづめの移動日である。札幌ではちょうど雪祭りが開催されており、乗り換えに時間があるので、見に行くことになっている。車輪の刻む音は、雪に吸収されてこもっていた。売店で買ったサンドイッチが、今日の朝食であった。
青函トンネルの説明が放送されると、世界一のトンネルに突入する。約40分で通り抜ける。いよいよ、北の大地である。トンネル内では、外の壁に鳥が飛ぶアニメーションが流れ、また、緑の蛍光灯によって最深部を知らせたり、となかなか凝った演出がされていた。
トンネルを出た。北海道である。土地は北海道でも風景はまだ本州であった。杉の樹林が見られ、山容もまだ北海道らしくなかった。
友人らと、流氷が来ているといいな、という話になった。2日前に紋別(もんべつ)の宿に問い合わせたときは、
「今日が紋別では流氷初日だったんですよ。沖合2~30kmのところにあって、まだ岸にはきていないんですよ。」
ということだった。流氷初日とは、今シーズン最初に流氷が観測された日のことである。今年も暖冬の影響なのか、平年と比べてやたらと遅い。平年では1月20日が流氷初日だという。僕らが行く頃には流氷が接近していることを祈っていた。
函館は寒かった。細かい雪が音をたてずにちらちらと舞い降り、ホームにはさらさらした雪が白くうっすら積もっていた。ここで札幌行きの特急に乗り換える。席は取れたが、自由席は満席であった。
函館を出発すると、車窓には白樺やブナが目立ちはじめ、氷と雪で覆われた大沼・小沼が通り過ぎた。徐々に 「北海道」へと変化していくのである。この面白さは飛行機では味わえない。鉄道やバス旅の楽しみのひとつである。
空は雲に覆われ、雪が斜めに降っていた。視界は良好ではなかった。窓ガラスには斜めに付着した雪が氷となってそのままアメーバーのように貼りついていた。寒さのため溶けないのである。夜行列車明けとあって、みんな眠りに入った。

札幌は大都市である。整然と区画された町並みは、東京よりも都会的な街である。今日は雪祭りとあって、人が溢れていた。コンコース途中にべニア板で囲いの造られた仮設荷物預かり所があり、そこにリュックを預け、会場である大通公園へと歩いて向かった。
雪は降っていなかった。雪の量もさほど多くはなかったが、道端には除雪された雪がこんもり盛られていた。そして、あちこちで寒暖計を見つけることができた。現在の気温は-3℃。手袋とマフラーを身につけているが、段々顔や手がヒリヒリとしてきた。
「みんな寒くないのかね。東京の人とあまり変わらない服装だよ。」
「靴も特別変わったものじゃないみたいだね。滑らないのだろうか。」
確かにそうである。見た目にはそれほど厚着をしているようではなかった。重装備をして膨れているのは南からの旅行者だけのようである。特別な材質の服を着ているのか、身体が寒さに慣れているのか。僕の身体は、さらに痛みが増していた。
また、北海道の人は足を垂直に下ろすからころばない、と耳にしたことがあるが、格別大げさな歩き方は見受けられなかった。みんな凡人である。
雪祭りの雪像はダイナミックである。北海道人のエネルギーを感じる。僕らは写真を撮るなりビデオを回すなりして楽しんだが、手や顔の痛みが最高潮を迎えていた。とにかく痛いのである。周りの人々は皆、平気な顔をして歩いている。なんともないのであろうか、不思議である。そうこうしているうちに、駅へ戻らなくてはならない時間となった。
駅弁を買い、釧路行の最終特急に乗った。釧路到着は23時32分。約5時間の乗車である。車窓も真っ暗だし、みんなでトランプをやった。夜行疲れも重なり、目を充血させながらゲームをやっていた。先月起きた釧路沖地震の影響で列車は遅れ、釧路に着いたのは夜中の0時を過ぎた頃であった。予約しておいたビジネスホテルへ駆け込んで、すぐ眠った。

雪原と灯台

釧路湿原へ

快晴である。今日は釧路湿原に行き、そして網走に向かう行程である。まだ昨日の疲れを引きずりながら、朝7時チェックアウトをした。気温-11℃。路面は氷でカチカチに凍っている。これぞまさにアイスバーンである。鼻から出る息が、加湿器のようにリアルに吹き出す。でも、気温の割には寒さは感じるられなかつた。風が吹いていないからか。僕の身体に寒さに対するウイルスが出来たのかもしれない。釧路湿原展望台へ行くバスに乗り込んだ。
バスが走り出すと、窓ガラスの内側が曇りはじめた。そして友人が一言。
「すげえ、窓が凍ってる!」
曇った水滴が凍ったのである。手で擦っても曇りがとれなかった。バスは釧路の市街地をしばらく走った。
道を右に曲がると、町並みがバタリと途切れ、前方に淡い黄金色をした釧路湿原が突然現れた。ヨシなどが枯れた薄茶色と、白く化粧された地面と、洋々とそして広漠たる釧路湿原である。一気に夢想の世界へ引き込まれた。潅木の枝が、魔法をかけられたように白く凍りついている。樹氷である。樹氷は霧氷とも呼ばれ、霧が木の枝にて凍りつく現象である。バスは数人の乗客を乗せ、そんな湿原の中を走り続けていた。
展望台に到着した。展望台は丘の上にある。眼下に180度、湿原が広がった。黄金色にうっすらとスノーパウダーをまぶしたようである。木製の欄にはガラスの破片のような霧氷が、規則正しくびっしり付着していた。ごみ箱のふたにも霧氷が着いていた。かつて夏に来たことがあるが、夏の緑は何処へいってしまったのか、冬の湿原は夏の爽快さや涼しさを全く感じさせない。外気の鋭い冷たさに対して、ふわっとした暖かさのある景色であった。
近くの案内板に説明があった。茶褐色の平坦な部分は水ごけの茂る高層湿原であり、草原の部分はヨシやスゲの茂る低層湿原であるという。望遠鏡を覗いたが、タンチョウツルは見れなかった。
10時を過ぎ、湿原に生える木の白さが無くなった。樹氷が溶けたようである。朝よりもロマンがなくなった風景のように思う。冬の湿原は朝の方が魅力的であった。
釧路駅に戻り、昼食を取った。そして、釧網本線に乗って、網走へと向かった。
このまま網走へ行っても時間が余るので、途中塘路(とうろ)で下車し、塘路湖へ行くことに決まった。荷物を駅前の商店に置かせてもらい、釧路川沿いを10分程歩くと、塘路湖に着いた。白鳥のいる、人気のない静かなところであった
塘路駅へ戻った。かつては駅員がいたのだろうけれど、今は無人である。網走方面からディーゼル機関車に牽かれた貨物列車がやってきて駅に停車した。僕らの乗る列車と交換待ちのようである。時間になっても列車はやってこなかった。黒のサングラスをかけた機関車の運転手が、赤い機関車の高い窓から顔を出していた。
「列車は遅れているんですか。」
「まだみたいだな。放送流れなかったか。」
僕らは屋外のホームにいたので聞こえなかったが、今にも壊れそうな駅舎には放送が入ったようである。釧路沖地震の影響で、危険箇所では徐行運転をしているからだという。昨日の特急もそうであった。しばらくして、さっきの運転手が首を出して叫んだ。
「今、無線が入って、あと2分で来るよ、あと2分! ! 」
指を2本立てていた。その通り、ライトをつけた1両編成のディーゼル列車が音をたててやってきた。
車内は混んでいた。暑い車内でたちまちメガネが曇った。最後部のデッキに陣を取ると、窓に広がる湿原を眺めていた。そして次の駅、茅沼(かやぬま)に入ろうとしてブレーキをかけ始めた瞬間、2羽のタンチョウの姿を発見した。列車に驚いたのか、タンチョウは小走りになり、切れ込みのある白と黒の羽をおもいきり広げ、首を水平にしながら列車と同じ方向に飛び立った。
優雅である。ほんの数十秒の出来事であった。思わず、
「丹頂、見た、見た!」
と叫んだ。雪の白さとタンチョウの白黒のコントラストが絶妙に調和していた。タンチョウは、戦後一時は100羽を下まわり絶滅に瀕していたのだが、その後の保護活動により今では約600羽にまで増えた。茅沼駅ホームには『タンチョウの来る駅』と書かれた白い標札が建っていた。
網走は大雪であった。知床の背骨を越えた頃から、雪がどっさり積もっていた。流氷は今日から来ている、とビジネスホテルの支配人が言っていた。網走では今日が流氷初日である。しかし、海岸にはまだ来ていないようで、
「とにかく風次第なんですよ。風がこっちに吹いてくれれば、一晩のうちに岸までやってくるし、向こうに吹いてしまえば沖合いの方に行ってしまうし・・・・・・。」
まさに「流氷」であった。夜は街中の蒸気船という居酒屋に入り、海の幸で乾杯となった。

オホーツク海岸を北上、紋別へ

酒の勢いもあってか、昨日のホテルへの帰り道で、『朝5時50分発のバスで紋別に行こう ! 』とみんなで気勢をあげていたのだが、目が覚めたのは全員7時半を回っており、結局予定通り8時30分のバスで発つことになった。紋別まで直通のバスは走っておらず、中湧別(なかゆうべつ)で乗り換えとなる。かつては湧網線と名寄本線の鉄道が走っていたが、赤字による廃止対象路線に選ばれ、今はない。これから乗るバスはその代替というわけである。
バスは発車した。跨線陸橋を渡ったが、坂道の部分だけ道路の雪が全くなくなっていた。アスファルト自体に融雪装置(暖房)が取り付けてあるらしく、とけた雪がところどころで水蒸気をあげていた。刑務所前を通り、網走の市街地を抜けた。
市街地を抜けると、凍結した樹氷のオンバレードとなる。左に結氷した網走湖が現れた。冬の朝の風景は声がでない程素晴らしい。数人の乗客を乗せた中湧別行のバスは、この美しい世界の中を走っていく。
「加藤宅前」という名のバス停があった。地名がないわけではないと思うが、自分の名前がバス停になるとは、北海道らしいことである。羨ましくも思った。
右手に海が現れた。蓮の形をした氷が細長い帯になっていた。流氷である。生まれて初めて流氷を見た。といっても、岸にはまだ接岸しておらず、あと数百mで接岸というところであった。氷の量も全然少なく、流氷の迫力は全くなかった。
運転手さんがマイクを通して説明を始めた。
「え-つ、今印ま観光客の方もいらっしゃるようですので、少し説明をいたします。網走では、ようやく昨日が流氷初日となり、今右手には流氷が見られると思います。え-つ、このあたりは夏になるとじゃがいもやビールの大麦の植わる丘が広がりまして、これもまた北海道らしい風景なのではないかと思います。雪に点々とついている足跡はキタキツネのものです。木が白くなっているのは霧氷と呼ばれるもので、水蒸気の凍ったものです。」
丁寧な説明だった。路線バスの説明というのは、運転手さん自身の全くの好意である。このような説明に出会うと、旅人としては嬉しくなるものである。常呂(ところ)に到着した。
バスはサロマ湖沿いを時々走った。そして真っ白な丘陵の中を走った。カラマツの林、トドマツの林、キタキツネの足跡が線を描いている。サイロが見え、牛が白い息をはきながら寒さをこらえている。「町境」バス停を過ぎると、佐呂間町から湧別町へと入った。道路脇の防雪フェンスは頑丈に作られていた。
湧別にてバスを乗り継ぎ、昼過ぎには紋別に到着した。
紋別は流氷の街である。産業は漁業であるが、冬の間は休業冬眠となる。岸が氷で埋め尽くされてしまうのである。冬の観光の目玉もこの流氷であり、2月上旬には「もんぺつ流氷まつり」が開催される。今日までその祭りの開催日であった。ところが、肝心な主役である流氷が接岸していない。沖合に逃げてしまっている。肉眼では白く細い線が見える程度である。さっき常呂で見られた流氷は、あそこにだけ接近していたということである。荷物を宿に置き、食事の後、流氷祭り会場へと向かった。
気温は0℃ということであるが、どいうわけか暖かく感じた。身体はすっかり北国の感覚になったようである。会場の隣に、流氷についての科学館「オホーツク流氷科学センター」があるので中に入った。中はそれなりに混雑していた。
入口に「流氷情報」があった。根室から稚内にかけてのオホーツク沿岸地方の白地図に、現在の流氷の位置が黄色で図示してあるもので、それによると、接岸している流氷はなく、最も接近しているのは、さっき通った常呂付近だけであった。
友人がとっさに喋った。
「早口言葉ができた。『流氷情報、樹氷情報』、どうこれ。」
「おもしろい。」
「りゆうひようじようひよう、じゆひようりようひよう……、あれ。」
みんなが口ずさんだ。寒い外ではなおさら言いづらいだろうと思う。
「厳寒体験室」というのがあった。その名の通り、究極の寒さを体験する部屋である。室内は年間を通じて-20℃に保たれている。館内の温度が+20℃なので、40℃の気温差があることになる。入口ではオーバーコートと手袋を貸出しているが、僕らは全て着込んでおり、何も借りずに入口の自動ドアを入った。
「これがマイナス20℃かよ。全然へっちゃらじゃん。」
「ほんとだ。ちょろい、ちよろい。」
みんな平然としていた。ひやっとはしているが、思ったより平気だった。階段が下まで続いており、下の展示室に向かった。
ブリザード体験ボタンがあった。押してみると「ヒューウ、ヒューウ」という疑似音と共に、寒風が吹き荒れた。これがブリザードかと思った。その隣には本物の大きな流氷が置いてあった。
5分ほど経過した。みんなの様子がさつきとは変わっていた。
「顔がいてえよ。」
「鼻が凍ってる。」
「寒いーーー。もう耐えられねえ-。」
「出よう、出よう。」
階段を掛け上がり、外へ出た。急激に気温が変化したので、身体が慣れなかったのだろうとも思う。やはり過酷な世界であった。
まつり会場内に「氷めいろ」があった。タイムを競ってみんなで遊んだ。日が段々と暮れていき、氷像がカラフルにライトアップされた。
食事を済ませ、宿に戻ってから、友人から提案があった。
「このまま北上しても流氷はなさそうだし、稚内へ行くのは取り止めて、常呂に戻らないか。」
「そうだねー、流氷情報で流氷はなかったし。」
流氷科学館での流氷情報によると、稚内方面の流氷は沖合いにも来ていなかった。やはり流氷の最も接近している場所へ行った方が、一面に広がる流氷に出会える可能性は高い。流氷を見たことは見たが、やはり一面に埋め尽くされた氷の塊を見てみたい、と誰もが思っていた。今日見た流氷は、流氷と呼べるものではなかった。
意義無く、明日の朝のバスで網走へ戻ることに決まった。流氷科学館に行くまでは、流氷は北へ行くほど漂着しているのかと思っていたが、紋別や網走の方が流れてきやすいそうである。
流氷はロシアのアムール川の淡水が海水と混ざりあって結氷するもので、その氷が風に吹かれてオホーツク海を南下し、北海道にやってくる。それを考えて世界地図を眺めると、紋別・網走が流氷の漂着地であることが判然とする。
明日は覆い尽くすような流氷に出会えるだろうか。『風よ吹いてくれ』、と祈るばかりであった。

荒れるオホーツクの海辺

流氷よ、いずこへ 網走へUターン

9時過ぎのバスで常呂へと戻った。紋別へ来るときと同様、中湧別で乗り換えとなる。パスターミナルまで乗ったタクシーの運転手さんによると、流氷は沖合い20km位にあって、昨日より更に10km離れてしまったよ、という。ターミナルに着き、バスに乗った。
今日は雪が降り、風が強く吹いていた。防雪柳のない直線道路では雪の吹きだまりができ、風の吹く方向に白い雪の山脈が作られていた。吹きだまりの下には石などの突起物があるのだろう。道路の上には風にのった粉雪が、寒々と吹いていた。
途中の佐呂間までのバスがあったので、それで佐呂間まで行き、昼食を食べたあと、常呂に向かった。常呂に着いたのは14時頃であった。パスターミナルは元国鉄の常呂駅だったところで、建物も新しく立て直されており、当時の面影は駅前広場の雰囲気ぐらいなものである。ターミナル内には定期券売り場兼案内所があり、おばさんが退屈そうに仕事をしていた。ターミナルの裏手はすぐ海岸であり、僕らは閑散とした待合室に荷物を置いて、海岸へ出た。
天気は朝とは変わり、もう晴れていた。流氷は昨日のように目の前にはなかった。水平線の彼方にかすかな白い線が見える程度だった。でも、風はこちら側に吹いている。ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない。海岸には流氷の塊片とでも言うのか、氷の塊があちこちに打ち上げられていた。
外は寒い。しばらく海岸にいた。すると、雲行きが怪しくなってきた。波が高くなり、あたりがうす暗くなった。空が鉛色になり、海が灰色になると、突然雪が吹いてきた。次第に雪は激しくなり、岬の集落が見えなくなった。怒涛がテトラポットにぶつかり、しぶきをあげている。
荒々しい冬のオホーツク海に急変した。Gパンの裾が凍結して固まった。吹雪がコートに着き真っ白である。海上が霧で霞がかかり、波の音がたくましく聞こえた。カモメが空で鳴いている。写真を取り続けている友人が、黒いコートを白にして雪と格闘していた。海の方から雪が体にぶつかってくる。
20分程経過しただろうか。空が明るくなってきた。雪も降りやんだ。そして太陽が出てきた。海も空も青に戻った。視界も元に戻り、岬の集落も見えるようになった。ほんのひとときのドラマだった。これは空の精霊から僕らへのメッセージなのかも知れない。流氷が見れそうな、そんな気がした。
海は何事もなかったように、穏やかになった。
日が暮れるまで待っていたが、流氷はやってこなかった。ターミナルの公衆電話で天気予報を聞いた。
「今夜は北西の風やや強く・・・・・・」
北西の風? 地図とコンパスを広げてみた。北西からの風だと、能取(のとろ)岬に流氷がひっかかるではないか。これこそ待ち望んでいた風である。今夜は網走に宿泊し、明朝早く能取岬へ行くことに決まった。ガイドブックにも能取岬は流氷を見るのに最適と記載してあった。早朝にしたのは今後の予定もあって、9時30分発の特急で札幌に向かわなければならなかったからである。これがラストチャンスであった。

打ち上げられた氷塊

能取岬にて

朝6時、空は既に明るくなっていたが、それでも、まだ夜が明けきっていない感じだった。頼んでおいたタクシーに全員乗り込み、能取岬まで車を飛ばした。流氷は来ているだろうか。
運転手さんに聞いてみたが、さあどうだろうねえ、と曖昧な返事が返ってきた。行ってみなければ分からない。運転手さんが話を続けた。
「子供の頃は、必ず一面に氷が張って、その上で遊んだもんだけど、今は氷が薄くなって危なて上にはあがれなくなったよ。」
温暖化の影響が顕著に表れていた。
車が坂を登り、峠を越えた。突然、視界に白い海が広がった。
流氷である。
一面の流氷である。風に乗った氷の塊が、能取岬に漂着したのである。
タクシーを降りた。僕らは夜明けの岬にたたずんだ。岬は高台になっている。左から右まで、蓮氷がびっちり埋まっていた。まだ、完全に氷どおしが固まっていないため、波が来るたびに蓮氷が生き物のように動き、その時の摩擦によってジェット機のような「ゴーッ」という音を力強く出していた。
風は強烈だった。体感温度は-20℃、いやそれ以上(以下)だろうと思う。服装は、下半身がGパンの上に更にナイロンのトレーニングズボンをはき、上半身は肌から順に、Tシャツ、綿シャツ、トレーナー、ナイロン系トレーニングジャンパー、スキーウエアーの上半身のみ、そしてダッフルコートを着込む6重構造である。靴はスノートレッキングシユーズ、靴下はスキー用の厚手のもの、手袋をはめ、マフラーを巻き、フードをかぶる。これで防寒は完壁である。寒いのは顔面だけであった。
岬には黒白縞の灯台が建ち、広々としていた。粉雪が強風によって地を這うように素早く吹き去っていた。

ついに流氷に出会えたのである。

流氷


流氷
冬のオホーツクの岬に立っていると
世間とは何だろうか、とふと思う
冷たい風が地の雪を舞い上がらせ
枯れ草がこすれ合いながら乾いた音を鳴らしている
流氷はうねりをあげて波にのり
風の吹くまま、気の向くまま
ゆっくり海を旅していた
力強い流氷、大いなる流氷
流氷は勇気を与えてくれた
世の中がいかに小さなものか
流氷を見ていると、そんな気がする

寒かった…
(上半身6枚,下半身4枚の重ね着)