八丈島【島紀行】

(旅行年月:2004年11月)

八丈島は伊豆諸島の最南端に位置し,東京から南へ287km,黒潮に浮かぶ亜熱帯性の植物が茂る島である.面積68.52km2,人口約9300人であり,三根・大賀郷,樫立,中之郷,末吉の5つの集落に分かれている.
八丈島の歴史を考えるにあたっては,江戸時代における流人の歴史が大きなエポックとなる.江戸幕府はこの島に1862人の罪人を島流しにしたが,これらの流人や土着の人々によって造られた風俗,習慣,生活様式が島内で見ることができる.八丈島の歴史を知るには,「八丈島歴史民俗資料館」に行くと,流人のことも含めて展示がしてある.
羽田空港からジェット機で45分という近さで,亜熱帯を味わうことができる島が八丈島である.

八丈富士(西山)
八丈島には2つの山があるが,こちらは山の姿が美しい八丈富士である.標高854.3mで1時間程度で頂上まで登ることができる.

登山道には火山による噴石がごろごろしている.

頂上付近からの絶景

なんと,斜面の植裁が「アロエ」

アロエは自生している

玉石垣の道

ハイビスカスの花

名産「明日葉(あしたば)」のソフトクリーム

「あしたば」のおひたし

島寿司
白身魚のネタを醤油ダレにつけ込んで,握ったもの.わさびではなくカラシを入れる.

でたーーー!これが「くさや」である.
バキバキと折って食べるのであるが,結構焼酎には合う.
「あの独特の匂い」とガイドブックなどでは表現されることが多いが,具体的には,「へその中のゴマの香り」「汲み取りトイレの便器の匂い」といったところか!!

八丈島空港

南原千畳岩海岸からの日の入り

八丈小島
かつては人が住んでいた

飛島【島紀行】

 

飛島は山形県酒田市に位置し、酒田から北西約40km離れた日本海に存在する周囲約10kmの小さな小さな島である。スルメイカの産地として知られ、酒田港からの定期航路で1時間30分で到着する。海釣りやダイビングも盛んである。晩飯も朝食も、これでもか、という具合に魚介海藻類が出てくる。
写真は飛島の勝浦港である。船が入港すると、港は一時だけ賑やかになり、島はどこでもそうであるが、この雰囲気が離島の醍醐味であり、離島の旅がやめられない一因でもある。

桜島【島紀行】

今でも噴煙を上げる鹿児島県・桜島。風向きによっては灰がパラパラと降ってきて、傘がないとあっというまに頭が真っ白になってしまう厄介者である。洗濯物は外に干せず、車が通ると「ぼふぁっ」と煙が舞いたって、すさまじい砂ぼこりとなる。写真左下に見えるトンネルは、万が一の時のための避難壕である。桜島は大根でも有名。

噴煙をあげる桜島

桜島桟橋
大根が描かれている

対馬島・壱岐島【島紀行】

対馬・ハングル語標記

北九州で所用があり、それを済ませた後、「せっかく九州まで来た」ということで、対馬・壱岐へ足を伸ばすことにした。ちょうど土・日も挟まり、小旅行をするのには適した日程だった。
九州地方はこの冬初の寒波がやって来て、非常に肌寒い天気だった。昨日は冷たい風が強く吹き、みぞれ混じりの雨が頬を突き刺すように降っていた。
対馬までの飛行機に乗るため、福岡空港へと向かった。小倉から快速に乗り、博多で地下鉄へと乗り換えた。
頭上にある案内表示板の指示に従って、駅のコンコースを地下鉄のりばへと歩いていった。すると、日本語と英語による案内の他に、中国語、ハングル語による標記もその横にされていた。そして、地下鉄に乗ると、「ドアにご注意ください」「MIND THE DOOR」「開門門時請小心」「○○○○ハングル語」と4ヶ国語で書かれたステッカーが全てのドアのガラスに貼ってあった。福岡空港の国内線のごみ箱にも、「もえるゴミ・もえないゴミ」という日本語の隣に、○や|の入り混じったハングルの文字や中国の見慣れない漢字が標記されていた。
対馬までは約1時間である。今日は天気が良く、眼下の景色がー望できた。飛行機が高度を上げて空港が徐々に小さくなっていき、福岡の街並みが見渡せるようになった。こうして見てみると福岡の街がかなり大きいことがうかがえる。博多湾に目をやると、「海の中道」とよばれる半島が、線のように細く長く美しく海中に弧を描いて延びていた。

対馬の玄関口・対馬空港

対馬の最北・比田勝のバス待合室

対馬も寒かった。まずは浅茅湾の美しい景観が見られる万関展望台へ行こうと思った。バスの時刻を調べたが、適当なバスが走っておらず、タクシーを利用することにした。
対馬空港のロータリーには
『歓迎 WELCOME ○○(ハングル語) 』
と書かれた観光案内板が立っており、ここでもハングル文字に出会うことができた。タクシーの運転手さんに聞いてみた。
「韓国からの観光客はかなり多いんですか。」
「そんなにでもないですねぇ。年に1度の祭りの時には、やって来るんだけどね。」
「あらそうですか。結構あちこちでハングル語を見かけたもんですから。」
「あー、あれね。お隣の国ですから、親しい気持ちを込めて付けているものなんですよ。」
という事であった。
対馬は古来、日本列島と朝鮮半島とを結ぶ海路の要衝として栄えていたところである。対馬から朝鮮半島までは53kmであり、博多港までの147kmよりもはるかに近い。「国際化、国際化」と叫ばれている昨今、国際交流の意識が盛んになってきているということを改めて実感し、国境に近いところほどその意識は高いのではないか、という気がした。
観光案内の文章、道路の道案内の標識、町村名の看板にもハングル語の標記がついていた。近い将来、北海道ではロシア語.沖縄地方では中国語、などといった標記があちこちで見られる日が到来するのだろうか。

壱岐の玄関口・芦辺港

小さな漁港・勝本

壱岐を結ぶ
国道フェリー(呼子側)

利尻島(最果て紀行・その1)

急行「利尻」号稚内行の人となった。札幌22時発の夜行列車である。今日も札幌は寒かった。昼間の気温は16℃。ここ2~3日、北海道は涼しいというよりも寒いといった日が続いていた。
『東京では、今年最高の35℃を記録し、厳しい残暑が続いております。』
ニュースはこう伝えていた。Tシャツの他にヨットパーカーしか持っておらず、この2枚だけでは着たりない気候だった。闇の広がる窓ガラスには、露が隙間なくびっしりと埋まっていた。
車内は満席だった。若者が多く、その中でも大きな登山用リュックを持ったワンダーホーゲル風の若者が多い。皆、最北を目指す人々だった。車内の明かりが消えた。

曇り空の中、列車は湿原を走っていた。すぐに兜沼駅を通り過ぎた。サロベツ原野である。緑の潅木が間隔をあけて後ろへと去っていく。これこそが北海道の車窓である。しばらくすると左眼下に陰鬱とした海が広がった。列車は徐行し、
「晴れていれば、左手に利尻富士の姿を望むことができます。」
と放送が流れた。利尻島の頂上は雲に隠れ、島の裾のみが海上に浮かんでいた。そして午前6時、最北の街・終点稚内に到着した。
稚内は道北随一の漁業基地であり、アイヌ語で「ヤムワッカナイ」-冷たい水のある沢-の意だという。戦後の樺太引き上げ者には稚内に留まる人が多く、それによって市制施行が可能になった所でもある。
フェリーのりばへと向かった。まず、利尻島へ上陸し、午後に礼文島。日帰りで稚内に戻ってきて一泊し、明日、宗谷岬へ行く予定である。ずいぶんと駆け足の旅程になってしまった。もっと時間をかけてじっくり回りたかったが、どうしても今後の日程の都合がつかず、急がざるを得なかった。ターミナル前の定食屋にて、朝定食を注文、まずは腹ごしらえをした。待合室では乗船客がコーヒーを片手に暖をとっていた。
7時30分、稚内港を出航した。ジュータンの敷かれた2等船室は、中高年のツアー団体客と旅行中の若者とで埋まっていった。約1時間30分で利尻島の鴛泊(おしどまり)港に入港する。3000トン級の船なので、海に出るといつもの事ながら上下に「グワン、グワン」と揺れはじめた。この利礼航路が開設されたのは鉄道が稚内へ伸びた後の昭和8年であり、稚内と利尻と礼文とを結ぶことから別名三角航路とも呼ばれている。
鴛泊まであと20分となった。甲板に出てみた。海上にポッカリ浮かぶ利尻島は最高である、と聞いていたが、やはり雲は取り去られていなかった。分厚く覆っている灰色の雲と海が、最北の地を表現していた。
利尻島はノシャップ岬から西へ約52㎞、周囲63㎞、面積182.1k㎡、利尻町と利尻富士町の2町からなり、北海道の離島の中では最も大きく、伊豆の大島よりひとまわり大きい島である。噴火によって出来たこの島は、島そのものが一つの山を形成している。一つの頂きから海に向かって美しくのびる裾を持ち、しかも高さが1700mもあるような島(山)は、日本では利尻島以外にはない。
利尻礼文の開拓は貞亨年間(1684~)から始まったが、本州からの移住者は明治に入ってから増えた。産業の中心は鰊漁であり、はじめのうちは出稼ぎ農漁民だったが、次第に定住する者が増え、最盛期の昭和30年には約2万人の人口があった。ところが、鰊漁の不振とともに人口が減少し、今では人口約1万人、アワビやウニなどの栽培漁業、ホッケ、スケソウダラ、イカなどの沿岸漁業に力を注いでいる。昭和49年に「利尻礼文サロベツ国立公園」に指定され、現在では漁業とともに観光が島の重要な産業になっている。
鴛泊のターミナルは堅牢な建物である。昭和58年に建てられたものだという。次の香深港(礼文島)行のフェリー出航まで2時間半しかなかった。バスの時刻表を見てみたが、一周する時間はない。待合室をさまよっていると、胸に名札をつけた制服を着たおじさんが近づいてきた。
「この後の予定は決まってるの?」
「いや、全然きめていないんですけど、とにかく、11時25分の船で礼文島へ行くのだけは決まっているんですが。」
「あ、それなら、ハイヤーでぐるっと一周するよ。船には十分間に合うから、どう?」
その方法が、今の状況では最良の島内見物に思えた。しかし、気になることと言えば、
「それで、値段の方は。」
「1時間半で1万3、4千円ぐらいかかっちゃうけど。」
「1万3、4千円かぁー。……。」
僕は渋い顔をしていた。
「せっかく一周できる時間があるんだからさ。もったいないよ。予算はいくらぐらい?」
「5千円位ならばいいんだけど。」
「5千円だと1箇所の往復だけで全然みれなくなるからね。誰か他に一緒にいく人がひとりいればいいんだけど。誰かいないかね。」
運転手さんと僕は待合室に入り、一人旅の人間を探した。一人青年がいたが、これから折り返しの船で発つとのことだった。
「じゃ、1万円でいいよ。」
それでも、頭の中で2つの思惑が交差した。
『タクシーに1万円を使うのは高くてもったいない!』
『せっかく最北まできたのだし限られた時間内では多少の出費も仕方ない、1万円は安い方だ!』
結局、後者を選んだ。

沼浦展望台

姫沼

運転手さんより、役場の発行している観光案内パンフレットを手渡され、島全体が載っている地図を開いた。これから、島北部に位置する鴛泊より右回りに一周するという。まずは姫沼に行くことになった。利尻島は鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形の4つの集落から成り立っている。道は閑散としており、左は海、右は小高い丘という風景だった。鴛泊の市街を抜け、車は海岸沿いの一周道路から右の道へ曲がって姫沼へ向かった。姫沼は針葉樹林や高山植物に囲まれた周囲1㎞の沼で、利尻山を逆さに写すことから、「姫沼のさかさ富士」として知られている。今日は山は写っていない。うっそうと茂る林のなかにある静寂な小沼だった。
再び一周道路に戻り、車は南下した。左手には、利尻水道を挟んで北海道がぼんやりと望める。島の人々は北海道のことを「本土」、本州のことを「内地」と呼ぶという。島民にとって、本州は遠い地なのである。「内地」という言葉には、北海道を開拓した人々のフロンティアスピリット、夢と希望と不安が表われているように感じる。
エゾマツとトドマツの違いについて聞いてみた。この2つは非常に見分けのつかない松である。
「これから先に、両方の木が生えているいい場所があるから。」
そして、その場所で車は止まった。右側には岩礁のような山にマツがごそっと立っていた。そこを指差して、
「左がエゾマツで右がトドマツですよ。」
一見しただけでは見分けがつかなかった。
「幹からわかれている枝が、上を向いているのがトドマツ、下を向いているのがエゾマツね。覚え方は『天まで・と・どけ・ト・ドマツ、どうでも・え・えぞ・エ・ゾマツ』と歌うんだよ。」
多少なまりのある言葉で、リズムにのせて繰り返し歌った。確かに、よく見ると枝ぶりが違っていた。見た目には、やはり上向きのトドマツの方が整っている。どうでもいいエゾマツは葉がボザッとしていてしまりがない。歌詞に影響されているかもしれないが……。
左手に赤と白の縞に塗られた巨大な灯台が現れた。石崎灯台である。赤白に塗られているのが無人灯台で、黒白に塗られているのが有人灯台である。今はほとんどが無人化されており、昔はここも黒白に塗られていたという。沖合い漁業の盛んな鬼脇の集落に入った。
オタトマリ沼を右手に見て、坂を登った小高い山頂にある沼浦展望台に着いた。涼しい風が吹いている。海抜42.7mと書かれた看板横で写真を撮った。山側の眼下にはオタトマリ沼が見え、その背後には木の点在する草原状の丘が続いていた。晴れていればそこに山がそびえているはずである。なんとも荒涼とした眺めであった。
島の南端を通過し、仙法志に入った。アザラシがいるという仙法志御崎公園に立ち寄り、北のいつくしま弁天宮を通り過ぎて、寝熊の岩に着いた。その名の通り熊が寝ているように見える岩礁である。仙法志の海岸は奇岩・奇石が点在しており、他にも人の横顔に見える人面岩もあった。人面岩の頭の部分には白いしめ縄がハチマキのように巻かれていた。
島内に信号は3箇所あるという。そのうちの一つは押しボタン式であり、
「赤になったのを見たことがないよ。」
と言う。
信号などなくてもよさそうであるが、島民が都会に出た時に困らないように教育上必要なのだそうである。
家の煙突は集納煙突といい、煙を一ヵ所に集めて外に出すしくみになっているという。そして北海道の家々に四角い煙突が多いのは、雪などから守るため頑丈に造られているからだという。
沓形に入った。小樽と礼文からのフェリーが寄る町(旅行時は運航していたが、現在は廃止された)で、アイヌ語で「クツアカンタ」-岩が多い所-という意である。海岸に広がっている黒い岩は、利尻岳噴火の際の溶岩であるという。右手はクマザサなどの生い茂る平原が続いている。上空に小さな飛行機が見えた。近くにある利尻空港から飛び立った稚内行のプロペラ機で、19名乗り、稚内までは20分で到着してしまう。船の弱い人が利用するそうである。現在空港はジェット化に向けて工事をしているという。
「ジェット化すれば、札幌から大勢乗った飛行機がびゅんとやってきて、便利になるだろう。」
と未来への希望を語っていた。
冬の吹雪はすさまじい。車で外を走っていても前が見えず、そういう時は車を運転しないという。大時化の時は、岸に風船ぐらいの大きさの岩が打ち上げられるというから驚きである。
「2~3日分まとめて新聞が配達されることもあるよ。もう何十年も前のことだけど、一週間くらい船が来なくて、島の食糧が底をつくという時もあったよ。」
と話していた。
沓形には会津藩士の墓があり、そこに寄ってもらうことにした。故郷が会津の僕としては気になる所であった。文化4(1807)年、ロシア軍艦の襲撃に対する警備のため、津軽藩や会津藩を配置させたが、この時に水腫病で死亡した藩士の墓である。墓は、道路より少し入った場所にひっそりと立っていた。
6年前、天皇(現皇太子)が山登りをされたため道路が良くなった、泊まったホテルはあそこだよ、などと話をしているうちに鴛泊へ戻ってきた。タクシーもたまにはいいな、と思った。

礼文島(最果て紀行・その2)

午後12時、礼文島・香深港に到着した。礼文島は利尻島より12㎞北に位置し、周囲72㎞、面積82k㎡、利尻島とは違って南北に細長い島である。島全体は丘陵地となっており、島東側は南北に貫く道路が走り集落が点在するが、西側は海食岩が断崖絶壁となって海に臨み、人を寄せつける気配が全くない。利尻島と共に、高山植物が海抜0mから群生し、「花の浮き島」とも呼ばれている。断崖絶壁の西海岸には8時間ハイキングコースがある。
島北端のスコトン岬に行ってみることにした。岬行のバスまではまだ時間があったので、昼食をとり待合室で待った。香深港ターミナルは鴛泊と同様、真新しい立派な建物だった。
桟橋が賑やかになってきた。折り返し稚内行きフェリーの見送りの人々である。僕も桟橋へ出てみた。
若者が多かった。3人組の青年が大声で歌を歌い、応援団のように大きな身振り手振りを加えながら別れを惜しんでいる。一方では一人ギター片手に歌を弾き語り、別れを告げている。船の甲板には数十人の若者が桟橋に向かって手を振り合い、別れの言葉を叫でいる。人それぞれ、自分なりの別れを表現していた。紙テープが何本も投げられた。
「○○大学ユースホステル部のますますの発展を祈って、三本〆めを行います!」
大声と共に手拍子が行われた。
出航間近になると「蛍の光」がしみじみと流れ始めた。
「またこいよー。」
「さようならー。」
「バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ。」
若者達の顔は笑顔で満ちていた。真に別れを惜しみ、思い出を胸にかかえている顔だった。つながりを求めてユースホステル桃岩荘に集まる若者たちの青春をかいま見たような気がした。
4人の乗客を乗せ、スコトン岬へ向けてバスは発車した。町を抜けると島東側の海岸通りを北に向かって走る。右には海に浮かぶ利尻島が望める。山頂は見えなかったが、朝よりはだいぶ雲が無くなっているように思える。道路は利尻島の方が整備されており、こちらは狭路も残る田舎道といった感じだった。
「日本離れした風景」とはまさにこのことを言うのか。北海道本土に住む人間でさえ、利尻礼文は美しい所だと言う。樹木はほとんど見当たらず、地の起伏に沿って荒涼とした草原が続いていた。
香深井、起登臼、上泊と過ぎ、飛行場のある船泊を過ぎた。バスはのんびりゆっくりした速度で走り続けた。北海道のバスにしては珍しいようにも思う。
僕はこのバスの折り返しで香深港に戻らなければならなかった。スコトン岬で与えられた時間はたった2分である。 須古屯の集落を過ぎ、あと少しで終点に着くというところで、念のため、運転手さんに聞いてみた。
「このバスはすぐ折り返しになるんですよね。17時のフェリーに乗るためにはこのバスで戻らないと間に合いませんよね。」
バスは今までの緩慢さが嘘のようにスピードを上げ、草原を勢いよく走り出した。
「もう少し早く言ってくれればよかったのに。」
そして岬の駐車場に着いた。
「ここを(14時)10分に発車するから。すぐそこが岬だから見てきていいよ。」
発車を5分延ばしてくれた。スコトンの地をこの足で踏めるのだった。急いで岬の先端へ向かった。

スコトン岬

メノウ海岸

前方にトド島が見え、断崖の突き出した先端にやってきた。写真を撮り、「最北限の公衆トイレ」と書かれたトイレに入った。宗谷岬とスコトン岬の緯度はほとんど変わらないが、若干宗谷岬の方が北に位置しており、それで「最北・限」という表現になったのだという。中途半端なシーズンの為か、観光客はほとんどおらず、曇り空と相まって風の吹く寂しい所だった。バスを待たせていることから、じっくりとその風景に浸っている余裕はなく、急いでバスに戻った。
15時を少し回った所で、香深の港に戻ってきた。さて、この島で一番楽しみにしていたこと、それは「うに丼」である。これだけは何が何でも実行しようと思っていた。いよいよ、それを食べれる時がきた。町中へ、いざ出陣である。
街は静かであった。人通りは全くない。適当に歩いていれば店があるだろうと思い、ぶらぶらと歩いていた。役場前を通り過ぎてしばらく行くと、「うに丼」と書かれた大きな旗を立てかけている店があった。迷わず店内に入った。
客は誰もいなかった。注文を聞かれ、ここでも迷わず、
「うに丼を一つ。」
うに丼にも量によっていくつかの種類に分けられており、器を大きくしたものが「ジャンボうに丼」、うにを2層にしたものが「ダブルうに丼」。ダブルうに丼の値段は普通のうに丼の2倍、うにも2倍なら値段も2倍というわけである。また、うにの入ったおにぎりを「うにぎり」と名付けて売っていた。隣の机に無造作に置いてあった北海道新聞を読みながら、出来上がるのを待った。
うに丼がやってきた。結構間口(横幅)の広いどんぶりである。ふたがかぶさっていた。
「まず、ふたを取って下さい。」
何か特別な食べ方でもあるのだろうか。言われるままにふたを開けた。ご対面である。御飯の上にのりを挟んで黄色とオレンジのうにが、うつわ一面に敷き詰められていた。白米が見えない! うには黄金のようにキラキラと光り輝いていた。
「そのふたにしょうゆを垂らして、わさびを溶いて、それをかけてから食べて下さい。」
その通り実行した。まずは吸い物を一口すすり、そして、うに丼を口にほおばった。
あまい。うまい。
臭みが全くない。次から次へと箸の単振動が続いた。至上の幸福感でいっぱいである……。
食べ終るのは早かった。5分位だったろうか。貧乏くさい話になるが、このうに丼は3500円なので、1分当たりに換算すると700円、1秒当たりでは約12円であった。
香深のフェリーターミナルに戻った。海上を見てみると、利尻富士が全姿を現わしているではないか。晴れたのである。日は傾きかけていたが、洋上にすらりと浮かぶ利尻岳は女性的で、何か神秘的な美しさを感じさせてくれるものだった。稚内入港時刻は19時20分の予定だった。

香深港から眺める利尻島

沖縄本島(最果て紀行・その5)

既に僕らは、2日間沖縄本島に滞在していた。今夜、石垣島へ向けて島を離れる。最果て紀行も、残るは南と西を残すのみとなった。最後の最果て「波照間島」と「与那国島」を目指して、南西に歩を進めた。
石垣島へは那覇新港(安謝港)から出航するフェリーを使う。出航時刻は夜の20時。航行時間は12時間である。僕らの乗ったタクシーは那覇泊大橋を渡り、新港の客船ターミナルに到着した。
乗船手続きを済ませた。予約した切符は安くて手頃な2等客室である。しかも学割が適用される。仲間4人全員分の乗船名簿と共に予約チケットを窓口に差し出して手続きを済ませた。
那覇から石垣島までの航路は、琉球海運と有村産業の2社によって運航されているが、本数は少ない。石垣島直行の船便は、琉球海運が週1本、有村産業が月2本程度である。全て夜行便となる。この他、宮古島へ寄港してから石垣島に行く便が同数運航されているが、そのぶん航海時間は長くなり、この場合、石垣島に到着するのは5時間ほど遅くなる。有村産業の船は沖縄本島と台湾の基隆・高雄間を結ぶ便であり、途中で石垣島や宮古島に立ち寄っている形になっている。
飛行機は1日に10本も飛んでおり、時間もわずか1時間なので、大半の人は飛行機を利用する。しかし、貧乏旅行をする若者は、やはり値段の安い船を利用する人が多く、実際、待合室に集まっているのは大きな荷物を背負った若者ばかりであった。航空運賃は14710円、フェリーは2等学割で4300円である。僕らが船を選んだ理由はもちろん料金が安いからであり、しかも夜行便なので宿代を浮かせることができるからであった。
乗船時間になった。マイクロバスに乗って船のつけられている桟橋まで移動し、フェリーに乗った。明朝8時、石垣港入港予定である。

沖縄本島の道路

南国の木

珊瑚礁

本島最北端の辺戸

 

西表島(最果て紀行・その6)

朝、目覚めて屋上の甲板に上がった。左には石垣島が朝日を背にしながら、目の前に現れていた。あと1時間で入港である。今日は8月最後の日、空にはうすく雲が広がっていた。南国の生暖かい風が、体に伝わってくる。
石垣島は面積約222k㎡、周囲約140㎞、那覇から約440㎞離れた、日本の最西南に位置する島である。西表島・波照間島・与那国島などの島々は、八重山諸島と呼ばれるが、石垣島はこれら八重山諸島の主島であり、行政・情報・交通の中心地である。
島の沿岸には珊瑚礁が形成されていて、沖合いには干瀬が広がっている。地形学ではきょしょう裾礁と呼ばれるもので、海上に突き出た海底火山(島)のまわりにびっしりサンゴが埋まった状態である。八重山諸島はサンゴの島である。
気候は亜熱帯海洋性気候に属し、年間を通じて温暖である。年平均気温は23.4℃、7月の最暖月においては28.5℃、年降水量は約2200㎜である。東京の年平均気温は15.3℃、年降水量が約1500㎜なので、東京と比べると気温も高く、雨量も多い。
石垣港に定刻通り入港した。今日の宿泊地は、石垣島よりさらに約18㎞西にある西表島である。周辺の離島へ向かう船は、少し離れた離島桟橋から出航する。西表・波照間・与那国島はもちろん、小浜・鳩間・竹富・黒島への全ての船がこちらから出発する。離島桟橋に移動し、西表島までの切符を購入した。
船は100名ほど乗れる船で、車は積めない高速ジェット船である。乗客は少なく、西表の大原までは約40分の道のりであった。西表島の港は大原、船浦、白浜の3箇所あるが、白浜は主に物資や車を運ぶフェリーのみ、しかも週1便の運航なので、大原や船浦が一般的な下船口である。大原、船浦へは1日十数本の船が発着する。西表島には飛行場がなく、船のみが西表島へ渡る唯一の交通機関であった。
海が美しい。エメラルドグリーンである。サンゴで形成された群島であることを実感できる。海上に森が浮かんでいるような、隆起のない島・竹富島の沿岸を通り過ぎ、大原港に入港した。

小さな港である。さらしのコンクリートの桟橋とほったて小屋の待合室があるのみで、あとは何もない。と、言い切ってしまうと語弊があるかもしれないが、イメージはそうである。前もってレンタカーを頼んでおいた。
『桟橋に車をおいておくので、その車で事務所まで来て下さい』
と、伝えられていたので、数台あるまわりの車を見渡すと、フロントガラスに名前の書かれた紙の貼ってある車があった。鍵がかかっておらず、荷物を入れて乗り込んだ。
「鍵がかかってないなんて、すげえな。」
「誰も持って行かないんだろ。」
まわりが海に囲まれている小さな島なので、たとえ盗んだとしても逃げられず、すぐに御用となると考えているからなのか。この世の中で悪行を働く人は誰もいないという思想が、西表島では広がっているのかもしれない。
西表島は明日の夕方まで滞在し、翌日17時の船で石垣島に戻る予定である。2日間、西表島を周遊できる。ひとまず旅館に立ち寄って荷物を置かせてもらい、その後レンタカー事務所に寄って、手続きを済ませた。
今日は浦内川を遡ってジャングル体験をし、明日は浜で泳ぐことにする。運転好きの友人・名(?)ドライバーにより、車はスピードを上げて、緑々としげる照葉樹林の中を浦内川ボート乗り場に向けて走り抜けた。
西表島は沖縄本島に次ぐ大きな島で、八重山諸島の中では最大の島である。面積約284k㎡、周囲約130㎞、全島の約90%が亜熱帯の森で覆われ、イリオモテヤマネコを初めとして学術的にも貴重な動植物が多く分布している島である。
車窓の山は「もこもこ」とした緑で覆われている。照葉樹林の特徴である。時々、川を渡ると、その川岸にはマングローブの木々がごっそり生えていた。
浦内川に到着した。食事をとった後、乗り場でボートが出るのを待った。待合室と自動販売機がある小さな桟橋である。そのボートの中からはラジオの声が聞こえていた。それによると、台風13号が八重山地方に接近しているという。朝は晴れていた天気も、今は雲り空となっていた。
10人程の乗客を乗せて、ボートは上流へと出発した。約8㎞溯り、そこからは約1時間かけて歩き、カンピレーの滝まで行く。ボートは亜熱帯林の繁る「ジャングル」を、モーターの音を高く唸らせながら前進していた。オヒルギと呼ばれるマングローブ林を眺め、ボートは右岸に近づいては離れ、左岸に近づいては離れと、蛇行しながら進んだ。
20分程で上流の船着き場に着いた。ここからは徒歩である。樹木の生える山道である。途中にはサキシマスオウノキという名の珍しい木が生えていた。カーテンのような平べったい板状の根が何本も地面から生え、樹木の中程でそれらがつながって一本の樹木になっている。
そろそろ歩き疲れてきた頃、マリュウドの滝が姿を見せ、続いて、カンピレーの滝が現れた。岩を滑るように流れる女性的な滝である。僕らはしばらく川で遊んだ。
船着き場まで戻り、再びボートに乗って下流へと向かった。下流の船着き場に到着すると、小さなボートに乗っているおじさんが訛りの強い言葉で話しかけてきた。僕には言っている意味がよく分からなかったが、沖縄に何度か来たことのある友人が通訳してくれた。
「これから石垣島まで戻るんだけど、一緒に乗ってかないか。安くしとくよ。」
6~7人も乗れば定員になってしまうようなボードである。今夜はこの島に泊まるので断ったが、たとえ石垣島に戻る予定だったとしても、あんなに小さなボートで石垣島まで渡るのは、ちょっと不安だった。
旅館に戻った。泊まっていたのは僕ら4人だけのようである。日が暮れるには、まだ時間があるので、近くを歩いて散歩した。
庭先には黄色や赤など色彩の鮮やかな植物が咲き乱れている。そして、緑色をしたバナナが何十本も実っている。南国に来たことを実感する風景である。頻繁に台風が襲来するので、沖縄地方では屋根を低くした造りになっていると聞いていたが、確かに家の大きさは若干小さいように思う。交差点の角には小さなスーパーがあり、その前では子供たちが遊んでおり、そのはしゃぎ声があたりに響いている。日暮れどきの、のんびりとした光景であった。

マングローブ(オヒルギ)

マリュウドの滝

カンピレーの滝

翌朝、8時起床。朝食をとりながらテレビを見ていると、台風13号が接近しているというニュースが流れていた。僕らは今日の17時発の船で石垣島に戻る予定にしていた。心配なので、旅館のおかみさんに聞いてみた。
「今日の船は出ますかね?」
「朝1番の便は出るということだけど、2便以降は未定だそうだよ。」
窓の外を見ると、大きなバックを持った人がぽつりぽつりと桟橋の方へ向って歩いていた。皆、台風が来る前に第1便で島を出てしまおうという人々である。天気予報では、『夜になればなるほど、風が強くなるでしょう』とのこと。悠長に飯を食っている場合ではなかった。第1便の出航時刻は9時10分である。あと30分もなかった。台風などの非常事態には西表島で缶詰めになっているよりも、交通の要所であって情報の集まる何かと便利な石垣島にいた方がはるかに安心だった。
結局、第1便で島を離れることにした。慌てて荷物をまとめ、車の運転をしていた友人は急いでレンタカーを返しに行き、この宿でも船の切符を売っているということなので石垣島までの切符を買い、僕らは先に桟橋に行って友人を待っていた。
桟橋には、どこからこんなに人が集まったのかと思えるほどの大勢の客が待っていた。すると突然、スコールのような激しい雨が降ってきた。頭の上から足の先まで、瞬時にずぶ濡れとなった。リュックもびしょ濡れである。そして、港には石垣島へ向う船が2隻入港してきた。50名程で定員になる小さな高速ボート船である。こんな天候のなか運航して大丈夫なのかと、不安に思う。
レンタカーを返しにいった友人も戻ってきて、乗船となった。船内はすぐに満席となり、真ん中の通路にも数人が荷物を下に敷いて座っていた。皆、ずぶ濡れである。タオルを出して、頭を拭いたりしていた。一番前には荷物が置けるぐらいの台があった。そこはリュック等の大きな荷物が置いたあった。
「ここの荷物は、下に置いてください。船は高速で、揺れるので。」
乗務員のおじさんがそう言って、荷物を下に降ろさせた。船は揺れるのだろうか。この天候なら覚悟をしなければならないだろう。しかし、石垣島までは約40分であり、時間を考えるとたいした道のりではなかった。高速ボート船は、石垣島に向け満員の乗客を乗せて西表島を離れた。
防波堤を越えて海に出ると、船はスピードを上げ、爽快に飛ばしはじめた。小型の高速ボートに乗るのは初めてだった。予想以上にスピードが出る。そして、スピードが上がったのと同時に、船が上下左右に激しく揺れ出した。「揺れ」というよりは「衝撃」といった方が適切である。小刻みに船が揺れていたかと思うと、突然船底でガツンと波にぶつかる音が響き、激しく左右に振られる。
隣の女性が悲鳴を上げた。座っていても座席の前の背もたれに取りつけられている手すりにつかまっていないと、隣の人とぶつかってしまう。さらに時折、高速で波が高いために船がジャンプして、しばらく空中に浮く。浮いているときは、下腹のあたりがスーッとする。窓には、雨が激しくたたきつけられていた。
<とんでもない船に乗ってしまった……>
これに40分も我慢しなければならないのか。ところが、である。しばらくするとその衝撃に段々と慣れてきた。ジェットコースターのようで楽しくなってきたのである。波にあたる度に「そら、また来た!」、船が浮く度に「おーっ!」と、声には出さなかったものの、心の中ではそう叫んでいた。大型船の揺れとはまた違う揺れなので、酔いの心配は全くなかった。結構楽しめた船旅だった。

鮮やかな花が咲いている

バナナの木


石垣島(最果て紀行・その7)

台風で大荒れの石垣島中心部


無事、石垣島に到着した。桟橋では、離島へ向う船がロープでしっかりと係留されはじめていた。既に、今日の船便は全て欠航になっている。西表島から乗った僕らの船が最終便だったということであり、第1便で石垣島に戻ってきて正解であった。車の運転をしていた友人は石垣島までの旅で別れて、明日の飛行機で実家のある北海道まで帰る予定だった。石垣から北海道まで移動するというのも、ダイナミックである。ところが、台風は明日に八重山地方を通過する予定であり、今のところ飛行機はまだ飛んでいるということから、今日の便で帰ることになった。午後の便に空席があり、那覇・羽田を経由して千歳まで向い、今日中に到着するということである。軽食をとって、その友人と別れた。

さて、本来ならば西表島のどこかの浜で海水浴をしていたのだが、予定に空白ができてしまった。荷物をホテルに置いて、チェックインの時間までどこかぶらつくことにした。
石垣島の観光をしようと思うのだが、定期観光バスは午前中に出発してしまっていた。それならば観光タクシーを使おうと思い桟橋ターミナルに止まっている運転手さんに聞いてみると、観光コースの表を見せてくれたが、値段が高い。これから足止めを食らい、何日か延泊しそうな気配であるのに、あまりお金を贅沢に使うわけにはいかなかった。レンタカーを借りようにも、まともに運転できる友人が去ってしまったため、レンタカーは無理である。このようなときは、路線バスを調べて適当に面白そうなところへ出かけたりすれば、結構時間つぶしになるものである。早速、バスターミナルへと向った。
時刻表をもらうと、13時40分発の「平一周」行というバスがあった。バスターミナルから東回りで石垣島の最北端のひらの平野というところまで行き、そこで20分間停車して折り返し、半島の付け根の部分である伊原間まで戻ったあと、今度は西回りでバスターミナルまで戻ってくるという、全島を巡るにはもってこいの運行ルートだった。ターミナルには17時30分に戻ってくる。天気も夜になればなるほど悪くなる一方なので、路線バスに乗りながら島の風景を眺めるのも悪くはなかった。
バスの発車までまだ時間があった。切符を買い、待合室で発車を待った。待合室と言っても冷暖房完備の近代的なものではなく、昔懐かしい木のベンチが並べてあって、外との区切りはなく、隣にはパンや牛乳などを販売する売店があるものだった。その売店からはまわりの閑散さを打ち消すかのように、NHKのラジオが流れていた。
数人の地元客と我々3人を乗せたバスは定刻に発車した。最北端の平野には1時間30分で到着する。車内にもNHKラジオが流れており、時折台風情報が入る。12時現在、台風の中心気圧は965hPaであり、次第に接近しているとの事であった。
空は暗くなり、風が強くなり、周期的に激しい雨がバスを襲っていた。ハイビスカスの赤い花の並木が大きく揺れながら沿道に続いている。両側にはサトウキビの畑が広がり、沖縄地方独特の亀の甲羅のような墓地が後ろに過ぎ去った。
14時現在、台風の中心気圧が960hPaになった。発達している。石垣・宮古島への上陸は明日になるが、今日の夕方には暴風域に入るという。まさに、直撃であった。
伊原間を過ぎると、バスは荒涼とした風景の中を走っていった。草原が広がり、その先に灰色の海が広がる。南国の温かい地方の風景とは思えなかった。南国の風景と言えば、葉の大きなモコモコした草木が生える陽気な風景というイメージが僕にはあった。そして終点の平野に到着した。
平野は小さな集落であり、それ以外何もないところであった。外に降りると、台風独特の生温かい湿った風が強く吹いている。雨はあがっていた。停留所付近を散策して、何をするでもなく、バスに戻った。15時30分、予定どおりバスは平野を後にした。
同じ道を引き返し、伊原間で右に折れて、今度は東側の道路で島の中心地であるターミナルを目指した。16時現在、台風の中心気圧は955hPaになっている。すれ違う車の台数も少なく、ターミナルに到着したときは強い風が絶え間なく続くようになり、あたりも薄暗くなっていた。
夜、別れた友人から北海道に着いたという電話が入った。『飛行機がけっこう揺れたよ』と話していた。

暴風雨である。窓から外を眺めると、街路樹が左右に大きく揺れ、強風の為に雨が霧のようになって辺りを霞ませ、海の波が小刻みに泡を立てていた。大時化である。道路には大きな水たまりができている。朝の天気予報によると、中心気圧は940hPa、宮古島に上陸した模様であり、石垣島への上陸は避けられたということである。進路は北東に向っていた。
本来の予定では、今日、波照間島に日帰りで往復し、明日、与那国島に向う予定だった。それぞれの航空券は既に東京で手配していた。空港に電話を掛けるが、なかなかつながらない。もちろん飛行機は欠航だろう。今日はホテルに缶詰めである。天が与えてくれた休息日だと考える。
今後の予定は、そのまま予定を繰り下げるのではなく、波照間島の訪問を後回しにして、明日は航空券の取ってある与那国島に先に行き、その後、波照間島に行くことにした。
『旅の目的は最南端と最西端を訪れることであり、石垣島まで来たのだから、最南端と最西端を行かずして、帰ることは考えられない』
このような意思を友人より示されたが、僕もまったくの同感であった。
朝食後、本屋で雑誌を買い込み、皆ホテルのベッドで寝転がった。ホテルのテレビは地元のケーブルテレビしか映らない。天気予報が流れたあと、全国版の朝の民放ワイドショーが始まった。しかし、その番組の冒頭の挨拶が、
「おはようございます。8月26日木曜日……?」
確か、今日は1993年9月2日木曜日である。情報番組が1週間遅れて放送されているのである。同じ日本でもこれだけの違いがあるのか、と思った。
空港にようやく電話がつながった。欠航便の航空券の扱い方について訊ねた。明日以降の同じ行き先の便に空席がある場合は、その便に振り替えるとのことであった。搭乗者名を言うだけで電話での予約変更も可能だという。また、運賃の払い戻しを希望する場合は、欠航証明書を空港で発行してもらい、航空券を購入した旅行代理店で払い戻しを受けてください、とのことだった。つまり、お金は東京で戻ってくるということである。とりあえず、影響がでたのは今日の波照間までのチケットのみであり、3日後(9月5日)に使用する予定だったので、3日後の波照間までの便を予約した。
テレビ画面の下にテロップで、
「八重山商工定時制の生徒さんへ。暴風警報が午後3時までに解除の場合は正常通り登校して下さい。」
と流れていた。午後になっても、嵐が収まる気配はなかった。
1階のロビーで地元紙の新聞に目を通した。すると、今年の旧盆は9月1日であり、各地では1ヶ月遅れのお盆が行われていることでしょう、と書かれていた。つまり、沖縄地方では昨日が「お盆」だったのである。沖縄本島や石垣島に働きに出ている人が、離島などの郷里に帰省している時期でもあり、交通機関が普段よりも混雑するということである。台風と重なり、厄介な時にぶつかってしまったな、と思った。何故9月1日が旧盆なのかと疑問に思ったが、新聞によると今年は閏年で、太陽暦と太陰暦の年間日数の誤差調整のため約1ヶ月ずれ込んだものであり、9月にずれ込むのは非常に希なことであると書いてあった。
外を眺めると、葉やゴミが強風に飛ばされて、空中を舞っていた。18時現在、台風の中心気圧は935hPaにまで発達していた。