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与那国島   (よなぐに) 
                                


日本最西端の碑へ   



    
放し飼いの与那国馬            荒涼とした丘陵


紀行文「最果て紀行」(その9・与那国島)

(波照間島より続く)
 与那国行きの飛行機は満席だった。旧盆に重なり、しかも台風で欠航が続いた後である。当然と言えば、当然である。今日は土曜日であり、幸運にも与那国島へのフェリーが運航される日だった。与那国へは毎週水曜と土曜にしか運航されていない。石垣港10時に出航し、14時に与那国に到着する。僕らは、フェリーで与那国島へ向かうことにした。
 船は大揺れだった。天気は最高なのだが、まだ台風の影響が残っているのか、波が高い。甲板で眺めると、紺碧色の海が、空飛ぶ絨毯のように、大きくうねりをあげているのがわかる。船が波の谷間に入ると、波の山の部分が目の高さと同じ位置までせり上がり、海に飲み込まれそうに感じる。立っているのさえ困難である。酔いそうなので2等の座敷にすぐ戻り横になった。船が傾くたびにカーテンが音を立ててガラスにぶつかっていた。船が小さいことも揺れを助長させている一因である。
 就航船は、1989年より就航している『フェリーよなくに』、総トン数498トンの小さなフェリーである。これでも、以前に就航していた船に比べればかなり大型化しており、かつては185トン、定員65名の小型貨客船が7時間かけて航海していた。「フェリーよなくに」の客室は2等のみであり、じゅうたんの敷かれた客室、2段ベッドの寝台、表デッキのベンチと3種類の客室を好みによって自由に選ぶことができた。
 まもなく入港の時間である。甲板に出ると断崖の続く与那国島が、忽然と姿を現わした。与那国島は有人島も無人島も含めて日本の最西端に位置し、石垣島まで127q、台湾までは約125qという石垣と台湾のちょうど中間にある国境の島である。人口は約1900人、面積28.5ku、周囲29.5q、昔からここは『ドゥナン』と呼ばれ、当て字にすると「渡難」と書かせるように、容易に人を寄せ付けない絶海孤島の場所である。東京からこの島に来るには、東京−石垣直行便に乗れば話は別だが、那覇、石垣と2回乗り換えて3本の飛行機を乗り継がないと来ることはできない。
 船は くぶら 九部良港に定刻に入港した。出迎えのワゴン車に乗り、旅館のあるそない祖納へと向かった。レンタバイクを借りる為、宿近くの事務所で降ろしてもらい、50ccのゲンチャリに乗って旅館に入った。気候も良いし、与那国の島内を巡るにはバイクが一番であった。当初の予定では、与那国には1泊のみのつもりだったが、フェリーとなったので到着が遅れ、島をゆっくりと見て回れる時間が無くなってしまった。ということで2泊し、充分に島を堪能することにした。荷物を部屋に置いて、しばらく休憩した後、近くをバイクで一回りした。

 夕食の時、僕ら以外にも宿泊客が1組いた。40歳位のおじさんが2人と、僕らと同年代の若者1人の3人グループだった。釣りをしていたらしく、一人のおじさんが釣った魚を厨房でさばいており、宿の女将さんに「うまく揚げてくれよ」などと話していた。
 そのおじさんが、僕らに話しかけてきた。
「君ら、どっからきたの。」
「東京です。」
「何しに? 仕事?」
「いえ、旅行です。最西端に行こうと思って。」
「ほぉー。」
 無難な会話が続いた。そして僕は、
「島には、釣りをしに来たのですか。」
と聞いた。僕には釣りに来たとしか考えられず、熱狂的な釣りファンがこの与那国までわざわざやって来ているのだろう、と思っていた。それ以外には考えられなかった。すると、
「釣りだってよ。へへっ。」
3人が顔を見合わせ、すれた笑いをした。しばらく沈黙が続いた。
「仕事だよ、仕事。建設機械を修理する仕事でこの島にやって来たんだけど、台風で出られないんだよ。そ
れで暇だから釣りをしていたっていう訳よ。」
仕事だったのである。その人たちは食事を終えて、部屋へと戻った。
「今日釣ってきた魚を今、揚げてもらっているからさ、後で下に食いに来なよ。」
そう言い残していった。
 食事が終わり、お茶が出てきた。ジャスミン茶であった。大陸文化の影響がかなり強く、かつては台湾との交流が盛んだったということが伺える。僕らも席を立った。
 1階のテレビのあるロビーでは、おじさんと若者が魚をつまみながら2人で酒を飲んでいた。
「ここへ来て食べな。」
おじさんの誘われるままに頂くことにした。泡盛をお湯で割ったものを差し出された。
「これは御馳走するから。これ以上酒が欲しいときは、自分で買って飲んでくれ。女将さんに言えば買えるから。」
 泡盛は沖縄地方で飲まれている蒸留酒(スピリッツ)である。「あわもり泡盛」という名称は一説には、グラスに酒を注ぐとアルコール分が高い為、泡が花のように立つからだと言われている。
 おじさん達は本島(沖縄本島)からやってきたということであり、この島では釣りをするか酒を飲むことしかすることがない、と話していた。
「与那国に行くときは、一週間見ないとだめだとよく言われるよ。」
まさに、その通りになっていた。
「この辺りの海岸では、若い女がトップレスでダイビングしているということだよ。えへへ。」
「米軍の空軍はインテリばっかだけど、海軍はそうじゃないね。」
「東京に行った時さ、タクシーの中に忘れ物をしたんだよね。それで問い合わせをしたら、忘れ物をする方が悪い見たいな態度でさ、頭にきちゃったよね。みんな冷たいんだよね。」
「この旅行ではいくらぐらいかかってるの。」
などなど、尽きない話は続いていった。僕のグラスの酒が空になると、『まぁ、飲めや』と、再び酒を注いでくれた。
 隣にあるテレビのチャンネルをひねった。与那国では台湾のテレビ放送が見れると聞いていたからである。すると、黄色い漢字の字幕が入っている映像が現れ、中国語の音声が流れてきた。台湾の放送だった。思っていたよりも鮮明な映像である。見苦しくはない。ちょうどクイズ番組をやっているらしく、司会者と解答者のやりとりがコミカルに行われていた。画面の下には必ず漢字の字幕が入っている。全ての言葉に字幕を入れているようであった。聴覚障害者の為の字幕なのか。それとも、中国語は広東語、北京語などで意味が全く通じなくなるということを聞いたことがあったので、それらの通訳なのかも知れない。この映像の鮮明さは、台湾に近いことを実感する。
 明日はいよいよ最西端であった。


  
山羊が駆け回る


 1993年9月7日、快晴。日差しが強い。この旅行中は半袖半ズボンであり、腕と足はかなり日に焼けてヒリヒリしていた。日焼け止めクリームを塗り、50ccバイクで島を一周することにした。
 まずは、島の最東端の東崎の岬へと向かった。東崎と書いて「あがりざき」と読む。一方、最西端の岬は西崎とかいて「いりざき」と読む。「西表島」は「いりおもて」である。沖縄の古語が今でもそのまま残っているものである。「あがり」とは太陽の昇る方角だからであり、「いり」は太陽が沈むからいりなのである。かつては南大東島も「おおあがり」と呼ばれていたそうである。
 与那国島には琉球語の地名がかなり残っている。ツァ浜、ウブドゥマイ浜、ウバマ浜、インビ岳、ドナン岳、ティンダハナタ……といった具合である。地図には全てカタカナで標記されている。
 車はほとんど走っておらず、走りやすい道路である。フルパワー、時速60qで悠々走れる。
 樹木が少なく、荒涼とした風景であり、波照間島とは対称的に起伏がかなりある島である。南国なので陽気な風景をイメージしていたのだが、それほどでもない。とは言っても、気候が温暖だからなのか、刺々しさは持っていない。牧歌的な荒涼さ、と言ったところだろうか。
 東崎の岬には、小柄なヨナクニ馬が放牧されていた。柵などはない。道路のすぐ脇に佇んで、草などを摘まんでいた。続いて島の南側を走り、軍艦岩、サンニヌ台、立神岩展望台と海沿いの名所を見て回った。紺碧の大海原と断崖絶壁の海岸が広がり、余計な人工構造物が建っていない景観は、絶海の孤島を思わせるのに十分であった。
 島には3つの集落がある。旅館のあるところは「祖内」と呼ばれるところで、島最大の集落である。そして、港のある「久部良」、島南に位置する「ひがわ比川」である。その比川の集落を通って、比川浜で泳いだ。
 昼食は祖内に戻って、うどんを細くしたような沖縄そばを食べ、午後はトゥング田、久部良バリへと向かった。
 トゥング田、久部良バリは、江戸時代の人頭税制下における苦しい生活と悲劇を伝えるものとして、現在でも語り継がれている史跡である。トゥング田は島民の男を一定時刻に水田に招集し、遅れてきた男や病気の者を惨殺した場所である。久部良バリは幅約3m、深さ約7mの岩の割れ目を妊婦に跳ばせ、跳べなければ死亡、無事跳べたとしても子供は流産したと伝えられる場所である。どちらも人口減らしを目的とした方策であったと言われている。
 人頭税は、各個人に対して一律に同額を課税する原始的な租税形態である。それぞれ個人の支払い能力を考慮しない悪税として、19世紀には廃止された。すなわち、家計が良かろうが悪かろうが、生産能力のない赤ん坊だろうが、全員に一律に課する税なのである。これらの伝説が伝承されてきた背景には、単に人頭税の重圧というだけではなく、慢性的な生活苦のなかから起きたものであろう、といわれている。
 島を周回すると、宿に戻った。日本最西端の西崎には、日没の時に行くことにした。日入は19時頃であった。
 日没まであと30分となり、旅館を後にした。我々は西を目指して走り続けた。与那国空港を右に見て、西崎へ向けて快走した。そして、坂を登りバイクを止めて、西崎の展望台に到着した。そこには緑の芝生が広がり、その向こうには台湾に接する広大な海が、果てしなく広がっていた。
 東経123度0分、ここが日本の最西端である。
 ついに最西端までやってきた。大きく膨らんだ赤い太陽が、いま地平線の彼方に沈もうとしている。僕の最果ての旅は「東・西・南・北」、全てが終わったのであった。

紀行文「最果て紀行」(完)       日本最西端の碑へ  

1994年執筆


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