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利尻島   (りしり) 
                                      
1993,2執筆




礼文島から眺めた利尻島


紀行文「最果て紀行」(その1・利尻島)

 急行「利尻」号稚内行の人となった。札幌22時発の夜行列車である。今日も札幌は寒かった。昼間の気温は16℃。ここ2〜3日、北海道は涼しいというよりも寒いといった日が続いていた。
『東京では、今年最高の35℃を記録し、厳しい残暑が続いております。』
ニュースはこう伝えていた。Tシャツの他にヨットパーカーしか持っておらず、この2枚だけでは着たりない気候だった。闇の広がる窓ガラスには、露が隙間なくびっしりと埋まっていた。
 車内は満席だった。若者が多く、その中でも大きな登山用リュックを持ったワンダーホーゲル風の若者が多い。皆、最北を目指す人々だった。車内の明かりが消えた。

 曇り空の中、列車は湿原を走っていた。すぐに兜沼駅を通り過ぎた。サロベツ原野である。緑の潅木が間隔をあけて後ろへと去っていく。これこそが北海道の車窓である。しばらくすると左眼下に陰鬱とした海が広がった。列車は徐行し、
「晴れていれば、左手に利尻富士の姿を望むことができます。」
と放送が流れた。利尻島の頂上は雲に隠れ、島の裾のみが海上に浮かんでいた。そして午前6時、最北の街・終点稚内に到着した。
 稚内は道北随一の漁業基地であり、アイヌ語で「ヤムワッカナイ」−冷たい水のある沢−の意だという。戦後の樺太引き上げ者には稚内に留まる人が多く、それによって市制施行が可能になった所でもある。
 フェリーのりばへと向かった。まず、利尻島へ上陸し、午後に礼文島。日帰りで稚内に戻ってきて一泊し、明日、宗谷岬へ行く予定である。ずいぶんと駆け足の旅程になってしまった。もっと時間をかけてじっくり回りたかったが、どうしても今後の日程の都合がつかず、急がざるを得なかった。ターミナル前の定食屋にて、朝定食を注文、まずは腹ごしらえをした。待合室では乗船客がコーヒーを片手に暖をとっていた。
 7時30分、稚内港を出航した。ジュータンの敷かれた2等船室は、中高年のツアー団体客と旅行中の若者とで埋まっていった。約1時間30分で利尻島の鴛泊(おしどまり)港に入港する。3000トン級の船なので、海に出るといつもの事ながら上下に「グワン、グワン」と揺れはじめた。この利礼航路が開設されたのは鉄道が稚内へ伸びた後の昭和8年であり、稚内と利尻と礼文とを結ぶことから別名三角航路とも呼ばれている。
 鴛泊まであと20分となった。甲板に出てみた。海上にポッカリ浮かぶ利尻島は最高である、と聞いていたが、やはり雲は取り去られていなかった。分厚く覆っている灰色の雲と海が、最北の地を表現していた。
 利尻島はノシャップ岬から西へ約52q、周囲63q、面積182.1ku、利尻町と利尻富士町の2町からなり、北海道の離島の中では最も大きく、伊豆の大島よりひとまわり大きい島である。噴火によって出来たこの島は、島そのものが一つの山を形成している。一つの頂きから海に向かって美しくのびる裾を持ち、しかも高さが1700mもあるような島(山)は、日本では利尻島以外にはない。
 利尻礼文の開拓は貞亨年間(1684〜)から始まったが、本州からの移住者は明治に入ってから増えた。産業の中心は鰊漁であり、はじめのうちは出稼ぎ農漁民だったが、次第に定住する者が増え、最盛期の昭和30年には約2万人の人口があった。ところが、鰊漁の不振とともに人口が減少し、今では人口約1万人、アワビやウニなどの栽培漁業、ホッケ、スケソウダラ、イカなどの沿岸漁業に力を注いでいる。昭和49年に「利尻礼文サロベツ国立公園」に指定され、現在では漁業とともに観光が島の重要な産業になっている。
 鴛泊のターミナルは堅牢な建物である。昭和58年に建てられたものだという。次の香深港(礼文島)行のフェリー出航まで2時間半しかなかった。バスの時刻表を見てみたが、一周する時間はない。待合室をさまよっていると、胸に名札をつけた制服を着たおじさんが近づいてきた。
「この後の予定は決まってるの?」
「いや、全然きめていないんですけど、とにかく、11時25分の船で礼文島へ行くのだけは決まっているんですが。」
「あ、それなら、ハイヤーでぐるっと一周するよ。船には十分間に合うから、どう?」
その方法が、今の状況では最良の島内見物に思えた。しかし、気になることと言えば、
「それで、値段の方は。」
「1時間半で1万3、4千円ぐらいかかっちゃうけど。」
「1万3、4千円かぁー。……。」
僕は渋い顔をしていた。
「せっかく一周できる時間があるんだからさ。もったいないよ。予算はいくらぐらい?」
「5千円位ならばいいんだけど。」
「5千円だと1箇所の往復だけで全然みれなくなるからね。誰か他に一緒にいく人がひとりいればいいんだけど。誰かいないかね。」
運転手さんと僕は待合室に入り、一人旅の人間を探した。一人青年がいたが、これから折り返しの船で発つとのことだった。
「じゃ、1万円でいいよ。」
それでも、頭の中で2つの思惑が交差した。
『タクシーに1万円を使うのは高くてもったいない!』
『せっかく最北まできたのだし限られた時間内では多少の出費も仕方ない、1万円は安い方だ!』
結局、後者を選んだ。


  
  沼浦展望台              姫沼      


 運転手さんより、役場の発行している観光案内パンフレットを手渡され、島全体が載っている地図を開いた。これから、島北部に位置する鴛泊より右回りに一周するという。まずは姫沼に行くことになった。利尻島は鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形の4つの集落から成り立っている。道は閑散としており、左は海、右は小高い丘という風景だった。鴛泊の市街を抜け、車は海岸沿いの一周道路から右の道へ曲がって姫沼へ向かった。姫沼は針葉樹林や高山植物に囲まれた周囲1qの沼で、利尻山を逆さに写すことから、「姫沼のさかさ富士」として知られている。今日は山は写っていない。うっそうと茂る林のなかにある静寂な小沼だった。
 再び一周道路に戻り、車は南下した。左手には、利尻水道を挟んで北海道がぼんやりと望める。島の人々は北海道のことを「本土」、本州のことを「内地」と呼ぶという。島民にとって、本州は遠い地なのである。「内地」という言葉には、北海道を開拓した人々のフロンティアスピリット、夢と希望と不安が表われているように感じる。
 エゾマツとトドマツの違いについて聞いてみた。この2つは非常に見分けのつかない松である。
「これから先に、両方の木が生えているいい場所があるから。」
そして、その場所で車は止まった。右側には岩礁のような山にマツがごそっと立っていた。そこを指差して、
「左がエゾマツで右がトドマツですよ。」
一見しただけでは見分けがつかなかった。
「幹からわかれている枝が、上を向いているのがトドマツ、下を向いているのがエゾマツね。覚え方は『天まで・と・どけ・ト・ドマツ、どうでも・え・えぞ・エ・ゾマツ』と歌うんだよ。」
多少なまりのある言葉で、リズムにのせて繰り返し歌った。確かに、よく見ると枝ぶりが違っていた。見た目には、やはり上向きのトドマツの方が整っている。どうでもいいエゾマツは葉がボザッとしていてしまりがない。歌詞に影響されているかもしれないが……。
 左手に赤と白の縞に塗られた巨大な灯台が現れた。石崎灯台である。赤白に塗られているのが無人灯台で、黒白に塗られているのが有人灯台である。今はほとんどが無人化されており、昔はここも黒白に塗られていたという。沖合い漁業の盛んな鬼脇の集落に入った。
 オタトマリ沼を右手に見て、坂を登った小高い山頂にある沼浦展望台に着いた。涼しい風が吹いている。海抜42.7mと書かれた看板横で写真を撮った。山側の眼下にはオタトマリ沼が見え、その背後には木の点在する草原状の丘が続いていた。晴れていればそこに山がそびえているはずである。なんとも荒涼とした眺めであった。
 島の南端を通過し、仙法志に入った。アザラシがいるという仙法志御崎公園に立ち寄り、北のいつくしま弁天宮を通り過ぎて、寝熊の岩に着いた。その名の通り熊が寝ているように見える岩礁である。仙法志の海岸は奇岩・奇石が点在しており、他にも人の横顔に見える人面岩もあった。人面岩の頭の部分には白いしめ縄がハチマキのように巻かれていた。
 島内に信号は3箇所あるという。そのうちの一つは押しボタン式であり、
「赤になったのを見たことがないよ。」
と言う。
信号などなくてもよさそうであるが、島民が都会に出た時に困らないように教育上必要なのだそうである。
 家の煙突は集納煙突といい、煙を一ヵ所に集めて外に出すしくみになっているという。そして北海道の家々に四角い煙突が多いのは、雪などから守るため頑丈に造られているからだという。
 沓形に入った。小樽と礼文からのフェリーが寄る町(旅行時は運航していたが、現在は廃止された)で、アイヌ語で「クツアカンタ」−岩が多い所−という意である。海岸に広がっている黒い岩は、利尻岳噴火の際の溶岩であるという。右手はクマザサなどの生い茂る平原が続いている。上空に小さな飛行機が見えた。近くにある利尻空港から飛び立った稚内行のプロペラ機で、19名乗り、稚内までは20分で到着してしまう。船の弱い人が利用するそうである。現在空港はジェット化に向けて工事をしているという。
「ジェット化すれば、札幌から大勢乗った飛行機がびゅんとやってきて、便利になるだろう。」
と未来への希望を語っていた。
 冬の吹雪はすさまじい。車で外を走っていても前が見えず、そういう時は車を運転しないという。大時化の時は、岸に風船ぐらいの大きさの岩が打ち上げられるというから驚きである。
「2〜3日分まとめて新聞が配達されることもあるよ。もう何十年も前のことだけど、一週間くらい船が来なくて、島の食糧が底をつくという時もあったよ。」
と話していた。
 沓形には会津藩士の墓があり、そこに寄ってもらうことにした。故郷が会津の僕としては気になる所であった。文化4(1807)年、ロシア軍艦の襲撃に対する警備のため、津軽藩や会津藩を配置させたが、この時に水腫病で死亡した藩士の墓である。墓は、道路より少し入った場所にひっそりと立っていた。
 6年前、天皇(現皇太子)が山登りをされたため道路が良くなった、泊まったホテルはあそこだよ、などと話をしているうちに鴛泊へ戻ってきた。タクシーもたまにはいいな、と思った。

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